富士子たちは警察の聴取が終わると、先に東京へと帰って貰った。富薫子もいるし翌日の仕事もあるだろうからと玉緒が配慮したのだ。
柔たちは警察が東京の自宅まで送ってくれることになったが、家の前にはマスコミがいて近付けなかったのでビジネスホテルへ泊まることとなった。
「まず飯ぢゃ」
ホテルにチェックインして滋悟郎はすぐに夕食に行くことを決め、近くの焼き肉店へ入って行った。
「ほれ、どんどん食え!」
滋悟郎は肉をどんどん網に乗せる。炎が勢いよく上がって肉が焦げ炭になっていた。
「お義父さん、お肉がもったいないですよ」
「だったら炭になる前に食え。柔、試合の後なんぢゃからもっと食わんか」
滋悟郎は焼けた肉をどんどん柔の皿に置いて行った。さっきから全然手を付けてないその肉は冷えて固まっていた。
「柔さん……食欲ないの?」
「あるわけ……あるわけないじゃない! だっておかしいじゃない。あたしだけ何も知らなかったなんて。どうして言ってくれなかったの? どうして……」
柔は声を荒げた。半個室のような賑やかな焼き肉店で、その声はその場にのみ響いていた。
「ごめん……」
うなだれる耕作。
「あたしは……あたしには知る権利があったはずでしょ。ううん。知っておかなきゃいけなかった」
「あなたを守るためにそうしたの」
玉緒がそう言ったが柔は納得しない。
「子供扱いしないで。あたしはもう大人なのよ。自分の事は自分で決めるし、自分で守ることだって出来る。今日のことだって知ってれば……」
「知ってればなんだ?」
虎滋郎が低い声で柔に問う。思わぬ声に柔は何も言えずにいた。
「背後から近づいてきたナイフを持った男をお前はどうにかできたというのか? 小さな子供がそばにいてそれでも何かできたと言うのか?」
「何もできなかったかもしれないけど、知っていれば一人にならなかったかもしれない。そうすればこんなことには……」
「いんや。それは甘い」
「おじいちゃん」
「甘い! あんみつに黒蜜をかけてアイスを乗せるよりも甘い」
「なによ、それ」
「お前は日ごろからぼけーっとしすぎなんぢゃ。すこーしばかり柔道が出来るからと言って、油断している節がある。そんな隙だらけのお前なんて誰だってなんとでもできるわ」
「なんですって! そんなにぼんやりしていません! NYで一人暮らしもしたし、人並み程度には警戒心だってもって歩いてます。でも、おじいちゃんがそんなに言うならなおの事なんで教えてくれなかったのよ」
滋悟郎はじとーっと柔を見るが、何も語らない。
「おじいちゃんはね、相手の人を下手に刺激しないほうがいいと考えたのよ。ただでさえおかしな人なのに、柔の態度が変わったりしたらもっと危ないことになるんじゃないかって思ったのよ」
「そうなの?」
「柔さん、それは本当だよ。アメリカでは西野みたいなやつのことをストーカーっていうんだけど、ストーカーは自分で嫌われるようなことをしておいて実際拒絶されたりすると逆上して殺したりすることもある。だから柔さんには西野のことを警戒しないでいて欲しかった。態度を変えないでいてくれれば、きっと過激なことはしないと思ってたんだ」
「でも、とんでもないことになったわ」
「それは俺の存在が明るみになったからだろうな」
「結婚したことが原因だっていうの? でも、そんなこと気にしてたら」
「そう、柔さんに自由はない。実を言うと、西野の存在を認識していたけど、所在が分からなかったんだ。それで俺たちも危機感を覚えて対策を取ってたけど何もなかった。西野はもしかしたら柔さんの事を諦めたのかもしれないという、楽天的な考えさえ出たほどさ」
「でも、違ったのね。あの人は試合会場に現れた」
大勢の人の中にいたのかと思うと、柔は背筋が寒くなる。どんな顔でどんな思いで柔を見ていたのか。
「俺は身を隠して西野が会場に来るのを待った。でもあれだけの人がいてとても見つけられなかった。西野は絶対に来ているはずなのに。だから俺は試合中に一度だけ柔さんに声援を送った」
「決勝戦ね」
「ああ……俺は賭けに出た。君ことを柔さんと呼ぶのはあまりいないだろう。だからそれを聞いた西野はきっと俺が来てることに気付くだろうと」
「近くにいなかったらわからないわよね?」
「だから賭けなんだ。ずっと言って回ったら怪しいし、見せつけるように出て行ったらマスコミに囲まれてしまう。そうなるとまた西野は姿を消すかもしれない」
「とにかく姿を見せて貰わないことには何もできなかったということ?」
「うん。柔さんを危険な目に合せてしまい申し訳なかったけど、どこかで何かをしないと一生怯えるような暮らしをしないといけないのはよくないから」
来年にはオリンピックを控えている。大事なタイミングで怪我をさせられたり、精神的にダメージを与えられたくない。
「それでも、耕作さんは無茶をし過ぎです。ナイフを持った人を相手にするなんて。かすり傷なのが奇跡なんですよ」
耕作は申し訳ないと言うように笑った。
「それでどうやってあんな奴をしとめたのぢゃ?」
「え?」
「運がいいだけでナイフを持った男を取り押さえることなんかできるはずがないぢゃろ。おぬし、何をしたんぢゃ?」
「滋悟郎さんには敵いませんね」
「無論ぢゃ。あやつに何をした?」
「実はアメリカの友人から戦闘術を教えて貰いました。俺は格闘技の経験もないし、勢いだけで今までやって来れたけどそれだけじゃダメかなって思って。友人に、元軍人がいて彼が基礎の基礎だけど、教えてくれたんですよ」
「だから以前よりも体つきがよくなったのかい?」
虎滋郎がまじまじと耕作の体を観察する。耕作の変化には柔も気づいていたが、重い荷物を持ってアメリカ中を飛び回っていたからだと思っていた。
「ある程度は筋肉がないと打撃も防御もできませんから。でも、この様ですよ」
情けないと言うようにヘラヘラとしていたが、柔は少し悲しい顔で右手の包帯を見ていた。右手に何かあればペンを持つのも取材に行くのも不自由になる。命があっただけいいとは言うが、耕作にとって記者であること記事を書くことは、生きることそのものなのだ。それを柔はよくわかっていた。
食事を終えて、ホテルに戻るとベッドに座る柔が何か思いつめたような顔をしていることに、いくら鈍い耕作でも気づいてそっと声を掛けた。
「心配かけてごめん。でも、もう大丈夫だから」
耕作も腰を下ろし柔の頭を撫でると涙が流れた。
「あたしはいつも……いつも何も知らない。久しぶりに耕作さんに会えると思って浮かれてたの。富士子さんやみんなも来てくれるって言うから、本当に楽しみで。試合なんて早く終わればいいのにって思ってたの」
「うん……」
「でも、みんなあたしのこと心配して来てくれて、一歩間違ったら他の誰かが怪我してたかもしれないくて……」
「みんな君の事が大切なんだ」
「それは金メダル獲ったから? 国民栄誉賞を貰ったから? あたしが普通のOLだったら狙われることも無かったし、みんなを危険な目に合せることも無かった」
「それは違うよ。みんな君の友達だから心配したんだ。もし君が普通のOLでもきっとみんな同じように心配したし警戒してたよ」
「そんなことないわ……」
「じゃあ、君はキョンキョンが狙われていても知らんふりするのかい?」
「しないわ! だって……友達だし、あたしは柔道できるから」
「同じだよ。みんな、友達だから君を危険に晒したくなかった。柔道の達人でなくてもそこにある思いは同じさ」
「でも、誰も教えてくれなった。おじいちゃんがああ言ってもあたしは身を守ることすらさせて貰えなかった」
「それは……」
「いいの。みんながいう理由も理解してるわ。でも、今度からはちゃんと教えて欲しい。あたしは守られてばかりじゃ嫌なの。あたしだって耕作さんやみんなが大切なの。思いは同じでしょ」
「そうだな。これからは何でも相談するし、何でも話すよ」
「あたしも、そうする」
柔は耕作の左側に抱き着き、ぎゅっと抱きしめた。
「いたた……すごい力だな」
「だって怖かったんだもん。耕作さんがいなくなったらと思うとすごく怖かった」
「俺も同じさ。柔さんがいなくなったらどうやって生きて行けばいいのかわからない」
「じゃあ、ずっと一緒にいようね」
「ああ、約束するよ」
二人はそっとキスをした。でもそれ以上は出来ない。もどかしい思いをしながら二人は何度もキスをして、抱きしめた。
「あ! そうだ。何でも言うって約束したから一つだけ」
「何?」
「明日、滋悟郎さんに紹介したい人がいる」
「誰?」
「それはね……」
柔の耳のそばで小さく言う。それを聞いた柔は目を大きくさせて驚いた。
「明日が、楽しみね」
「そうだろう」