「ソウル五輪でヤワラが小さな体で大きな選手を投げ飛ばしていく姿は息を飲むほど美しく刺激的で、そこからグレンもちゃんとトレーニングをしてくれるようになったんです」
「何言ってんだよ! 俺はずっと真面目にやってただろう」
「なあグレン。何でおじいちゃんがお前をレスリングじゃなくて柔道を教えたか分かるか?」
「才能がなかったからだろう。俺は他の兄弟や従弟たち違って体も小さいし、レスリングは向いてないと思ったんだろう」
「いいや、違う。お前には柔道の才能があったから柔道を教えたんだ。柔道の達人と試合をしたことがある人だからわかったんだろう。お前とジゴロー先生に似た部分があることを」
体が小さくて俊敏で負けず嫌い。だからこそ使える相手の力を使って勝つ方法。無意識にグレンはやっていた。それをデービスは見逃さなかった。
「それは俺も思いました」
通訳をしていた耕作が思わず会話に入る。
「初めてグレンを見たとき、猪熊柔道に似たものを感じました。パワーで戦うアメリカの柔道ではなく、相手の力を利用して投げる柔道に俺は希望が見えました。虎滋郎さんはいかがです?」
「俺も同意見だ。だからこそ目を引いたし、勝てたんだと思う。アメリカでは珍しいタイプだとデービスさんも思ったから柔道を教えたんだろう。俺もきっと同じことをすると思う」
「なーにがわしと似てるぢゃ。全然違うわい!」
「滋悟郎さん?」
「まだまだ鍛え方が足りん! あの浮ついた足、反応の遅さ、引きの甘さ。何もかもが違う。まだまだぢゃ」
アリシアは困惑顔で通訳するか迷っていたが、耕作や柔が笑っているのを見てグレンに滋悟郎の言葉を伝えた。それを聞いたグレンはあからさまに不貞腐れたが、なぜか目の前に座る耕作たちは笑っていた。
「なに笑ってるの?」
「ごめん、ごめん。馬鹿にしてるわけじゃないんだ。ただ、なんだかんだ言って滋悟郎さんもしっかりグレンの試合を見てたんだなって思って」
「え?」
「じゃなきゃ、あんなこと言えないだろう。滋悟郎さんが思わず見てしまうほどの柔道を君はしていたんだ。普段なら、絶対に興味のない柔道をする選手を見たりはしない人だよ」
そっぽを向いていた滋悟郎はグレンの方に目だけ向けると、微笑んだ。
「デベソの孫ならついでにわしが教えてやる」
「じゃあ、あたしの家でやればいいわ」
「浮かれるんぢゃない。お前さんは鍛えなおしぢゃ」
「は、はい!」
「ぢゃが、その前に腹ごしらえぢゃ。それを食べてみなさい」
指さす先には豆大福。アメリカ人の3人は初めて見るもので、なかなか手を伸ばさない。
「デベソが食べたいと言っていた扇屋の豆大福ぢゃ。でも、なんで柔がこれを買ってきたんぢゃ?」
「耕作さんに頼まれたの」
「かねこさんの日記に書いてあったんですよ。滋悟郎さんが豆大福を食べるたびに思い出しては話していたことを。だから今回、いい機会だと思って柔さんに買ってきてもらいました」
「ふんっ、余計なことを。ぢゃがな、あの頃よりは小さくなってしまったが、味は変わらずうまい。優勝祝いとして食べるといい」
ロイドとグレンはその奇妙な白くて丸いボールのようなものに、黒い豆が付いていることが若干気味悪く思いながらも手で持ってみると信じられないくらい柔らかくて思わず落としそうになった。
「なんだよ、これ。柔らかすぎだろ。しかも粉ついてるし」
グレンは恐る恐る口に入れる。柔らかい餅としょっぱい豆、そして甘いあんこが口に広がりなんとも言えない感覚に襲われる。
「こんなの食べたことない」
夢中で食べるグレンはのどに詰まらせそうなるが、緑茶をぐっと飲むと事なきを得た。
「この緑の苦い飲み物ともよく合う。不思議な食べ物だな」
「父も食べたかっただろうな」
ロイドはしみじみと父を思う。レスリングも柔道も愛した、強くて優しい父を。
「大福はこれだけか?」
「ええ……」
「なんでもっと買ってこんのだ! デベソの息子や孫ならどんぶり一杯食うぢゃろう」
それを聞いた二人は必死に否定した。ロイドはスリムな体系だし、グレンは重量級ではない。食事量はそんなに多くはない。
「おじいちゃんじゃないんだから、普通の人はそんなに食べません」
「なんぢゃと! まるでわしが規格外の大食らいのような言い方しをって!」
「その通りじゃない」
柔と滋悟郎の掛け合いにグレンは思わず吹き出す。アリシアは通訳していなかったけど、雰囲気だけでわかる。
「いいな~こんなにぎやかなところで柔道出来たらよかったのに」
グレンはレスリングの才能がないから、柔道をさせられていると思っていた。父も兄弟たちも同じ練習場で共に練習しているのに、自分は一人で柔道をしていた。祖父は元気なうちは相手をしてくれたが、年にはかなわず次第に相手はロイドになった。ロイドも異端だったから、家族から遠のいた気がした。それでもつながりを断ちたくなくて柔道をした。アメリカではマイナーなスポーツの柔道は注目もされない。誰からも相手にされない。
グレンは孤独だった。でもやめなかったのは、祖父が喜んでくれたから。偉大な祖父がレスリングと同じくらい柔道を愛していることを身をもって知っていた。それだけがグレンの誇りだった。
「ねえ、グレン」
アリシアが声をかけた。
「今度からあたしと一緒に練習しましょう。その方がきっと楽しいわ」
「女と一緒なんて嫌だよ」
「一人でやってもたかが知れてるわ。あたしはずっと一人でやってきたからわかるの。強くなるには一人じゃできない。五輪で金メダル取るには今まで以上の鍛錬が必要よ」
「でも、優勝したし」
「無名だったからね。でも、今回の優勝で各国が目をつける。対策を考えてくるわ。そうなれば経験が多い方が有利だもの。それに相手はあたしだけじゃないわ。ねえ?」
アリシアは滋悟郎と柔を見た。
「あたしもNYにいるときはアリシアと一緒に練習するし、おじいちゃんもおまけで付いてくるわ。グレンやアリシアがもっと活躍してアメリカに柔道を広めてほしいの。そしてラスティのことをみんなに知ってほしいわ。アメリカには偉大な柔道家がいることを、みんなもっと知るべきなのよ」
ロイドは柔の言葉に胸が熱くなる。子供のころに父以外に柔道を教えてくれたのは、ラスティだった。近所の子供を集めて柔道をいっしょにやった。とても楽しい思い出だ。父はやはりレスリングに力を入れていたから、相手にしてくれることは少なかった。グレンの気持ちはよくわかる。
「……考えてみるよ」
グレンはうれしくてたまらないが、ここでその感情を出すほど子供じゃないし、正面切って感謝できるほど大人でもない。でも、世界チャンピオンの柔がここまで言うならと承諾したような形をとった。
「ヤワラ!」
急にアリシアが大きな声を出した。
「な、なに?」
「来年はいよいよ五輪よ! 今回は負けたけど次は負けないわ」
「あたしも、負けないわ」
「なーにが『負けないわ』ぢゃ。あんな腑抜けた試合しおって。二人とも鍛えなおしぢゃ!」
新たなライバルのアリシアとの再戦を誓い、アリシアたちとは別れた。だけど柔はその前にしなくてはいけないことがあることを、忘れてはいなかった。
「出てくるぞ、本阿弥さやかが」
虎滋郎が低い声で言った。誰も忘れていないし、忘れるはずがなかった。柔の最大のライバルは今や本阿弥さやかだけ。アリシアはまだその位置にいない。
五輪の前に立ちはだかるその壁は着々と力をつけていた。出産して衰えるような人ではない。それどころかより強くなっているに違いない。
「本阿弥さやかの情報は日本で野波や加賀くんが取材してるはずだが、なかなか尻尾を出さない。虎滋郎さんの手を離れてどんな練習をしているのか」
「外国にでもいるんぢゃないのか?」
「海外なら虎滋郎さんは何か聞いてないですか?」
「出産したイギリスに残っている可能性もあるだろうし、独自のチームを作って柔対策を練っている可能性もある。いずれにせよ気を抜くなよ、柔!」
「はい!」
◇…*…★…*…◇
日本某所。
畳の上で静かに正座をする人が一人。美しい姿勢で目を閉じ、凛とした空気があたりを包む。
「来年3月が勝負ですわ。猪熊柔」
本阿弥さやかは今も柔のみに焦点を絞っていた。それが彼女の柔道だから。