vol.1 松田と風祭
世界選手権が終わり、柔を取り巻く問題も解決したことと、オリンピックイヤーになったこともあって年明け早々柔はNYの転勤の任を解かれ、2月には日本へ帰国した。荷物はとりあえずまとめて必要なものは日本へ送り、急ぎでないようなものは耕作のアパートへ入れ込んだ。
そして寒い冬も終わりを迎えた3月。桜が咲き始めたこの日、代々木体育館はかつてないほどの熱気に包まれていた。
オリンピック代表選考に大きくかかわる試合が開かれるというのもあるが、何よりも2年ぶりの「猪熊柔対本阿弥さやか」を日本中が心待ちにしている。
柔は国内外の試合に何度か出場しているが、さやかは出産もあり公式試合は2年ぶり。そしてこの間のトレーニングなどは一切非公開。どのような進化を遂げたのか全く情報はない。各国の道場やぶりに行っていたのではないかとか強力なコーチを雇い極秘で特訓をしていたなど今までとあまり変わらないような記事が出た程度だった。
日刊エヴリーの野波もどうにかして情報を手に入れようと、あらゆる方面に探りを入れたが手掛かりすら得られなかった。
「面白いではないか!」
滋悟郎は相変わらず両手にお菓子を抱え放送席にいた。実況と解説の二人がさやかについて話している間に入り込み、袋を開けた。
「さやか嬢は毎度面白いことをしてくる。今まで通りの稽古では敵わんと思えばやり方を変えるぢゃろう。こちらが予想もできんような方法をな」
「しかしそうなると柔さんが負けてしまう可能性もあるという事でしょうか?」
「試合何ぞ、やってみなきゃわからん。ぢゃが、柔はさやか嬢の上を行く厳しい稽古をしてきた。負けることなぞありえん!」
相変わらずの滋悟郎節は健在だが、いつもと違ってさやかを警戒しているのが伺えた。
開会式が行われ、久しぶりに柔はさやかと目が合った。にらみ合いなどそんな次元の低いことはしない。胸に引っかかるものもない。お互いにこれまで培ってきた力をぶつけるだけ。だから今更、威嚇も牽制もいらない。
本気を出して戦うだけ。今、持っているすべてを出し切るだけなのだ。
「放送席から見てもわかります。二人から流れる緊張感のある空気はどちらが優勢という感じもしません。本阿弥の稽古の結果がどう出るのか楽しみですね」
◇…*…★…*…◇
成田空港には耕作の姿があった。本当なら前日に到着していた飛行機が、トラブルにより出発が遅れ到着も遅れてしまった。柔には仕事の関係でギリギリでしか間に合わないと伝えていたものの、まさかここまでとは思っておらずタクシー乗り場へ全力ダッシュした。
何台かタクシーはいるものの立ち止まる。気づいてしまったのだ、財布にはあまり日本円が入っていないことを。そもそも現金をそんなに持っていないので、途中で現金をおろしたとしても成田から代々木体育館までタクシーで行ったらどれだけ金がかかるか考えると震えた。
「バイクがあったら……」
電車を使って間に合うか。それとも高速バスがいいか。そんなことを考えていると、背後から声をかけられた。
「松田さんじゃないですか?」
耕作はその声が誰か振り向かずともわかった。だからこそ助かったと思った。
「行き先は代々木だろう?」
「え? ええ。松田さんもですよね?」
「そうだ。一緒に連れていけ!」
半ば強引に耕作は風祭に付いて行った。もちろん風祭はタクシーではなく、お抱えの運転手が運転する車で代々木体育館へ向かう。
「いやー本当に助かったよ。到着が遅れて間に合わないかと思ったんだ」
「僕もですよ。まさか同じ便に乗ってたんですか?」
「お前もNYからか?」
「ええ」
「へーいいよな、社長さんは。ファーストクラスなんだろう。俺はエコノミーで体が固まっちゃってるよ」
そう言って伸びをする耕作に風祭は遠い目をする。
「そんなことありませんよ。僕だけの時はビジネスクラスに乗りますよ」
「え? ファーストじゃないの?」
「ええ。あの時とは時代が違いますから。社長といえども経費を無駄遣いできません。そりゃビジネスクラスでも贅沢だと言われたらそれまでですけど、仕事に行く上でコンディションを整えておくことも必要ですし。到着してすぐに仕事に取り掛かれないなんて、何しに何時間もかけて行ったのかわかりませんからね」
風祭はすっかり社長の顔をしていた。いけ好かない女好きで保身ばかりして、柔をめぐって争うこともあったが、4年前にさやかと結婚したと聞いたときはついに観念したと思った。さやかに目をつけられたらどうあがこうと、風祭に自由な未来はない。そう思っていたのだが、今目の前にいるこの男からはそういった息苦しさを感じない。
「お前、変わったな。前にNYで会った時とも変わった」
「色々ありましたからね」
柔道は強かったが人前に出ることが苦手で実力を出せなかった風祭は、社長になっても受難は続いたが今はとてもさっぱりとした顔をしている。何かを乗り越えたのかもしれない。だがそれは耕作にはわからないことだった。
「子供生まれたんだろ? おめでとう」
「ありがとうございます。松田さんの方こそ、柔さんとの結婚おめでとうございます」
「おお、ありがとう。あらたまって言われれると何か照れるな」
「今は住まいは別々ですか?」
「今年からな。去年までは柔さんもNYで仕事してたから一緒にいたけど、あのストーカーが逮捕されたこともあるし、オリンピックイヤーだしで2月から日本に戻ったよ。その方が練習にも集中できるし。そっちは? 姿をくらませてどんなトレーニングをしてたのか興味あるけど」
「さやかさんがどんなトレーニングをしてるのか、実は僕もあまりよく知らないんですよ。この不景気で僕も仕事が優先になりましたし、子供の世話もありますしね」
「さやかは子供の世話しないのか?」
「しますよ。それなりに、可愛がってますよ。でも、やっぱり今の焦点は柔さんですから。かなりストイックなトレーニングをしているようです。柔さんはいかがです?」
「そりゃ、今日に合わせて滋悟郎さんと稽古を重ねてるはずだし対策も考えてるだろうよ」
「それは楽しみですね」
「まあな」
今回は耕作も風祭も身近で柔とさやかを見ていない分、どんな試合が行われてどんな結果になるか予想もできなかった。もちろん耕作は柔の勝利を疑ったことはないが、さやかの柔に対する執念からくる努力を長年見てきた。その成長の早さは目を見張るものがり、侮れないことは誰よりもわかっていた。
「今日は子供はどうしてるんだ?」
「会場に行ってると思いますよ。徳永さんの姪が世話係をしてくれてるんですよ」
「へーまたわざわざ大変なところに就職したもんだ」
「徳永さんはご結婚されてたんですけど早くに奥様を亡くされて、さやかさんを娘のように思ってたみたいなんですよ。僕らの結婚式の時も号泣されて」
「娘ってより孫じゃないか?」
「そうかもしれないですね。でもその仕事の姿勢を見ていた彼女が数年前から手伝いに来てくれて、信頼もしていたので息子の世話をしてもらってるんですよ」
「他にもたくさんいただろう?」
「ええ、でも今はあの時ほどいませんよ。贅沢してると何言われるかわかりませんから」
「クビにしたのか?」
「そうですけど、新しい勤め先を紹介した上でですよ」
「そりゃ、しっかりしてるな」
「もちろんですよ」
日本のバブル崩壊の余波は本阿弥グループも無関係というわけにはいかなかった。事業の縮小せざるを得ないところもあり各グループ会社の社長は苦しい決断をしたはずだ。もちろん本阿弥家も王族のような生活を同時に見直している。しかしその暮らしぶりが宣伝であったために、いきなり引っ越したりできなかったので人員の整理を行ったのだ。本阿弥邸で働いていたと経歴はどこへ行っても重宝される。無事に求職者は仕事を得ることができた。