群衆はある一点だけ見つめている。その間をかき分けるように進む。小さな体であったことに感謝した。嫌な顔をされることがないくらい、人々は集中していた。だからこそ早くこの目に姿を焼き付けたいと思った。
開けた場所に出てかなり遠い場所だったが、はっきり見えた。
猪熊柔が投げられ、畳に背を付けたのだ。
信じがたい光景に会場は静まり返っていた。息をするのを忘れたんじゃないかというくらい、静まり固唾をのんでいた。
「お嬢様――!!」
徳永のその叫びに目覚めたかのように人々は歓声を上げた。落胆の声も聞こえるが喜びの声もある。さやかには多くのファンがいて彼らもさやかが柔を倒すことを期待していたのだ。
だが、当のさやかからは喜びの感情が見えない。そしてようやく審判が口を開く。
「それまで!」
会場がざわつく。なぜ「一本」じゃないのか。
そしてさやかは呆然と畳に背を付けた柔の手を取る。そして柔は立ち上がると、道着を整えながら白線まで歩きさやかと向かい合う。その表情はとても硬い。
主審手は柔の方に上がった。
信じられないという顔で主審を見る柔。会場もざわついていたが、さやかが何も言わずに畳を降りると間違いではなかったのだと感じた。
「時間切れだよ」
誰かが言った。その声は徳永の耳にも届いていた。年老いた足で走って階段を登ってきたせいで息はあがり足も震えていたが、その言葉は聞き間違いではないと確信していた。さやかは畳を降りるとき、一瞬徳永の方を向いた。そして寂しそうな目をしたのだ。長い間見てきたからわかる。さやかの微妙な表情の変化。負けたのだとわかった。
徳永は同じ道をトボトボと歩き車に戻った。
しかし、さやかは車に戻ってこなかった。不安でまた飛び出そうと思ったとき、風祭がやってきた。
「心配しなくて大丈夫です。もう少ししたら戻りますから」
優しく微笑む風祭に何も言えなかった。この軽薄で女にだらしない男を徳永はあまりよく思っていなかった。さやかがこの男に惹かれていることは誰の目からも明らかだし、その思いが成就することを願っていたが、心の底から応援したい気持ちにならないかったのも事実だ。
でも、今は違う。二人の間に何かありそれは徳永の知るところではなく、二人にはとても深い愛情と信頼とで結ばれている。子供が生まれたからではない。それ以前から何かが変わった。
徳永はさやかが好きなCDを用意していつでも出発できるように、静かに待った。
礼をして畳を降りた柔は記者やスタッフに囲まれる前に、逃げるように出て行った。さやかを探したが人ごみに紛れて見つからず、いつの間にか人気のない場所へと来てしまっていた。
これは柔が一人になりたいと思ったからかもしれない。滋悟郎に叱られる前に、どうしても一人にならないといけなかった。
「柔さん……」
耕作の声がした。やはり最初に見つけるのは耕作なのだ。どれだけ離れてても、探してくれる人。
廊下の奥から人の声がした。記者の様な口ぶりだったから、耕作は思わず近くのドアを開けて柔の手を引いて中に入った。ただの倉庫のように狭くて暗い場所。でも、ここでは二人きりだった。
「行ったようだ」
ドアに耳を当て様子をうかがっていた耕作。
「耕作さん……」
部屋の奥で背を向けたままの柔。
「あたし……勝ったの?」
「ああ、勝ったよ。技あり一つ分優勢だった」
「おじいちゃんに怒られちゃうな。一本勝ちしなかったんだもの」
「そうかもな。鍛えなおしぢゃって言われるかもな」
「…………」
「柔さん?」
まだ耕作のほうを向かない柔は肩が小さく震えていた。
「あたし、負けたと思ったの。あの時、投げられて背中から落ちて天井が見えたの。眩しいライトが見えて、真っ白になって何も聞こえなくて。ああ、負けたんだって思ったの」
「俺も一瞬そう思ったよ。でも、投げられる前に試合は終わってた」
「それでも! あれはさやかさんが勝ってた。ほんの一秒! たったそれだけであたしは負けてさやかさんは勝ってた」
「そうさ。その一秒が運命を分けた……柔さん?」
「怖いの。あたし、初めて負けることが怖いと思った。今までそんなこと考えたこともなかった。ジョディやさやかさんとの試合の中で楽しさは感じてたけど、負ける怖さを感じたことがなかったの。それはきっと心のどこかであたしは負けないって思ってたから。あたしはとんでもなく傲慢だった」
「それはみんな同じさ。俺も見ている皆も柔さんは負けないと思ってた。絶対女王なんだと思って期待して安心して見ていた。でも、よく考えたら負けないなんてことはないしそうなら他の選手の努力は無意味じゃないか。それを俺は忘れていた。さやかは確かに強くなったけど、きっとまた柔さんには勝てないだろうと思ってた。実際そうなったけど、一秒あれば勝っていた。それはもう運の世界だ」
「お父さんが言ってたの。99%の努力と1%の運があればさやかさんはあたしに勝てるって。その1%があたしは怖いの」
「負けたくないって思った?」
柔は頷く。
「それはさやか以外にも?」
また頷く。すると柔の背が暖かくなりそっと抱きしめた。
「悔しくて泣いてるの? 怖くて泣いてるの?」
「どっちも……」
「無神経だと思うかもしれないけど、俺はうれしいよ。だって君はもっと強くなる。負ける怖さは強さに繋がる。負けないために強くなる」
「でもさやかさんはもっと強くなる。あたしは物心つく前から柔道しかしてないから強くて当然じゃない。でも、さやかさんは色んなスポーツで頂点になり、高校生の時から柔道を始めたのにあたしと変わらないくらい強いわ。いいえ、あたしよりも強いかもしれない。あたしはそんなさやかさんに今後勝てる気がしない」
「彼女は努力の天才だ。柔道を始める以前は何をやらせても完璧で頂点に立てた。柔道以外は天才だった。でも柔道ではそうはいかず、努力をした。最初こそ見栄を張った上辺だけの努力が、君に何度も負けるうちにプライドを捨て泥にまみれて努力し続けた。そしてここまでたどり着いたんだ。きっかけは君だ。だから今度はさやかが君のきっかけになる」
「あたしは柔道を真剣勝負で挑んでいたけど楽しい方が勝っていて、ジョディやさやかさんの試合の前でも早く試合したくてたまらなかった。心のどこかで遊びみたいに思ってたのかな」
「それが悪いことだと俺は思わないよ」
「どうして?」
「さやかは君に勝つことが目標で、ジョディは五輪で君と試合することが目標だった。でも、君は強い相手と試合をすることが楽しかった。それは幼い頃から柔道をしてきたのに、そのことを公表せず滋悟郎さん以外の人と稽古をしてこなかったから、外の世界を知って自分の本心に気づいたことで生まれた感情なんだ。楽しんで試合をすることを、悪いことだと思わない。でも、今、負けたくないと思った気持ちも悪い事じゃない。まだ前に進むことができるという事なんだと俺は思う」
「あたし、まだ強くならなきゃいけないのかな……」
「君の背を追う人がいる。彼女たちは君を倒そうとするだろう。それに全力で向き合うためには強くあり続けることが必要だと俺は思う」
「それは記者としての考え?」
「ああ。俺個人も半分はそう思ってる」
「じゃあ、もう半分は?」
耕作はぎゅっと抱きしめる。柔の夫となり記者と選手という関係からもっと深くなったとき、柔個人の将来や家族としての未来を考え始めた。楽しそうに家事をする姿も、一生懸命仕事をする姿も見ていた。だから感じることがある。でもそれは……
「今は言えない」
「ずるいわ。耕作さんの思いが知りたいのに」
「俺の思いなんてどうでもいいんだ。それに言っただろう。俺は個人の半分と記者としては強くなってほしいって。五輪で金メダルを獲ってほしい」
「耕作さんってそういう人よね。あたしの柔道に一生懸命」
「そ……そんなことはないさ。君のこともちゃんと考えてるよ」
慌てる耕作に柔は思わず吹き出す。
「なんだよ。笑うことないだろう」
「なんか面白くて。耕作さんって昔からあたしにとても気を遣ってくれてるなって思ったの。柔道の事ばかり言うと怒ったりするから、誤魔化したりしてたけど言うべきことはちゃんというものね。あたしが聞く耳を持たなかっただけで」
「まあ、そうだな。俺が言わなきゃ誰が言うんだよ」
「そうね。ありがとう、耕作さん。あたしこれからきっともっと強くなる。ならなきゃいけないのよ」
「おお、一緒に頑張ろう」
「うん!」
外の廊下から声がした。
「猪熊ー! 猪熊ー! 表彰式始まるぞー!」
二人は顔を見合わせる。
「ほら、行っておいで」
「うん。ちゃんと、もらってくるから」
倉庫を出て柔は走って戻る。その背を耕作は見送ることしかできない。
トボトボと歩く廊下。あの時、自分の隠した本心を言ったらどうなっただろうか。
「もう、君の望む道を歩めばいいんだよ」
そんなことをいう耕作を柔はどう思うだろうか。驚きながらもうれしく思うのか、柔道家として存在意義がなくなったと思い落胆するのだろうか。誰よりも近くで一番見てきたからこそ、言いたくても言えない言葉。
「俺はズルいな」
会場に入る表彰式は始まっていた。大歓声の中、並ぶ姿が二つ。
耕作はもう一度、よく目を凝らした。
柔がいるのは当然だが、毎回準優勝のさやかは早々に帰宅するので授賞式にはいない。しかし今回はしっかり柔の右隣にさやかの姿があった。しかめっ面でもなく、微笑んでいる様子で記者の写真撮影に応じていた。
「槍でも降るんじゃないか!?」
困惑してるのは耕作だけじゃない。柔も記者もいつもと違うさやかに不気味さすら感じていた。ただいつも通りなのは一度も柔の目を見ないことだ。
「一体どんな心境の変化だ? まさか引退!」
「それはないですよ」
「急に出てくるなよ、驚くだろう」
「すみません。先ほどもさやかさんは記者にそう聞かれてましたけど、それはないときっぱり断言してました。まあ、お二人はどこかへ行っていたようですけど」
「いや、まあ、そうだな……って! じゃあなんだよ。お嬢様があんなことするわけないだろう。替え玉か!」
「そんなわけないでしょう。その答えもいずれわかりますよ。では、また」
颯爽と会場を出ていく風祭はいけ好かない様子ではなく、どこかすっきりした様子だった。