大会終了後、場所を猪熊家に移し、柔の優勝と五輪内定を祝う宴が催された。前回とは違い耕作もいるので、記者は入ることができない状態で始まった。そして言うまでもなく柔は滋悟郎から説教をされたが、その後は応援に来ていた富士子と花園たちとさやかの様子の変化やどんな稽古をしたのかで話題は盛り上がった。
少し落ち着いて来た頃、富士子から思わぬ発表があった。
「今日は猪熊さんのお祝いなのにこんなこと言うのは場違いかもしれないですけど、あたし、二人目を妊娠しました」
照れた様子で寄り添い合う富士子と花園。皆が驚いたと同時に拍手で祝福した。
「フクちゃん、おねえちゃんになるんだよ! すごい?」
4歳の富薫子も立ち上がって胸を張って誇らしげに言った。
「おーすごいぞ!」
そう言って頭を撫でる耕作に富薫子は顔を赤らめる。赤ちゃんの頃から耕作には懐いていたが、今もお気に入りの様だ。
「いつが予定日なの?」
「実はね、また10月10日なの」
「え? フクちゃんと同じじゃない」
「そうなのよ。偶然って怖いわ。でも、予定日通りに産まれるとも限らないし。ただね、オリンピックの応援には行けそうもないの」
残念そうに富士子は言う。
「無理しないで、日本で応援して」
「悔しいわ。せっかくアメリカに行けると思ったのに」
「行ったことなかったっけ?」
「そうなのよ。アトランタに行くのとても楽しみにしてたけど、もう一つ楽しみがあったの」
「もう一つ?」
「NYにも行きたかったのよ。二人がどんなところに住んでるのか見てみたかったのよ」
「会社が借りてる部屋だから全然大したことないよ」
耕作がそう言っても富士子は熱を持って話す。
「それでもあこがれるじゃない。NYに住むなんてとてもできないわ。映画みたいだもの。猪熊さんの話を聞いてとても興味がわくけど、英語もできないし機会もないし。だから五輪がいい機会になると思ったのよ」
「すまん! 富士子さん! 俺が不甲斐ないばかりに!」
突然湧いた花園の大声に全員顔が引きつる。
「いやね、花園くんのせいじゃないわよ。こればっかりは、タイミングだもの」
「そうぢゃ! ノッポのねえちゃんは引退したからいいが、お前は五輪が終わるまでは許さんぞ!」
「わ……わかってるわよ」
すごい剣幕の滋悟郎に柔も耕作もたじろぐ。それにこれから柔は全日本選手権があり合宿後は選手団で渡米しまた稽古に入る。耕作と子作りなんてする時間なんてない。
「あーもう少ししかないじゃない!」
「邦子さん!」
「特別に入れてもらっちゃった。あたしは記者じゃないからね」
「屁理屈だな。で、写真は?」
「もちろん、とってもいい写りの一枚を編集部に預けてきたわ。それで野波くんが今、必死に原稿書いてるところ」
「それで君はここで夕食でもってわけか?」
「いいじゃない。お祝いは皆でした方が楽しいでしょ。ねえ、柔ちゃん?」
「ええ、もちろんですよ。ありがとうございます」
邦子は言いながら寿司をリズミカルに口に入れ、あっと今に近くにあったものは無くなった。他にもから揚げや煮物など玉緒が用意した料理をつまみながら「おいしー」と感激していた。
「よく食うな……」
呆れたようにいう耕作に邦子の動きが止まる。そして意地悪そうな顔で見つめた。
「いいのかしら? そんな口をきいても」
「なんだよ」
「あたし、知ってるのよ」
「何をだよ?」
その場にいた皆が固唾を飲む。邦子は長年耕作と仕事をしてきた。何か弱みを握っていても不思議じゃない。柔に言えないような、滋悟郎に聞かせてはいけないような何かを握っているのかもしれない。
「実はね……さやかさんのことよ」
「はーー??」
誰もがそう思ったが、今、一番興味のある話題はこれかもしれない。
「野波くんが独自取材で突き止めたんだけど、さやかさんのトレーニング方法って謎だったじゃない? 柔ちゃんもあと少しで負けそうだったし」
「おい!」
「いいのよ。本当のことだもの。それでさやかさんのトレーニングって?」
「最新のコンピューター技術で柔ちゃんの柔道を分析してその特徴とか癖とかを見つけて対策をとったみたいよ。もちろんさやかさん自身の分析もして自分の弱い部分なんかを強化したらしいの」
「何が、コンペートーぢゃ。そんなのに何がわかるんぢゃ」
しかし耕作は神妙な面持ちで口を開いた。
「でもそれが最終手段だったのかもしれない」
「どういうことぢゃ?」
「虎滋郎さんの教えを受けても勝てなかった。それ以前にも様々なトレーニングをしてきて勝てなかった。そうなると当然、世界一のコーチである滋悟郎さんの教えを請いたいはずだがもちろんそんなことはできない」
「まあ昔断っておるからな」
「そうです。さやかからすると、柔さんに勝つこともだけど滋悟郎さんに勝つことも目標に入ってるんだと思います。だから世界一のコーチが手に入らないなら、最新の技術を使うしかない。本阿弥は不景気になった今でも財力はありますし、このノウハウは今後も生かせる」
「どういうことぢゃ?」
「柔道以外のスポーツにも転用できる可能性があります。詳しくは調べてみないとわからないですけど、今よりもゆっくりと再生できる機械があれば細かく体の動きや目線、癖が見える。陸上や野球のフォームはうまい人の動きをまねしていくことで上達するじゃないですか。それと似た感じでより最適な動きをすることで強くなる。そしてシューズやウエアなどの細かな部分でも改良をしていけば日本人選手はもっと強くなる」
「そして、お金になるー」
邦子がお茶をすすりながらそう言うと、全員が納得したような顔をした。
「でも、加賀くん。そこまで野波は知っていてなぜ記事にしなかったんだ?」
「知ったのはさっきみたいよ。さやかさんの関係者の中に専門家がいるのを見つけたって言ってたわ。野波くんはNYでその人を見たことがあってどんな研究をしてたのかも知ってたの。それでさっき問い合わせたら専属契約を結んで日本に行ってると言われたから間違いないって思ったらしいわ」
「これからのスポーツはそうなってくるだろうな。科学が入ってより繊細な部分で戦うことになる」
「どういうことっスか?」
中学校で体育の教師をしている花園が興味深げに聞いた。これからのことは子供たちに大いに関係する。
「俺の勝手な意見だけど、人間の限界に近付きつつあるってことかな。つまり体の小さな日本人も食事とか生活習慣の影響で欧米人に体格が近づいてきている。海外で活躍できる選手もこれからもっと増えてくると思う。体格差がなくなったら力は均衡するだろう。そうなったとき個人の努力とかはすでに当たり前で何で差をつけるかって言うと、細かい部分での微調整のようなことだと俺は思う。そしてそういうことを天性でできた人をみんなが天才と呼んでいた。つまりこれからは天才を作ることができるってことじゃないか」
「馬鹿馬鹿しい! わしのような天才を作ることができるわけがなかろう!」
「今は無理でしょうけど、これからはそうなっていくと思います。人間の限界を越えられるのは天才だけでしたが、それを科学的に突き止め凡人でもできるようにする。もちろんできることとできないことはありますし、経験による反射や対応などはそう簡単ん得られるものではありませんし、技術自体もまだ何十年も先のことだと思いますが」
「岡崎さんのスポーツ医学もその一つかしら?」
藤堂の夫である岡崎は大学でスポーツ医学を教えている。体の機能や動かし方、心理面などを効率的に鍛えることでよい成果を生む研究をしているのだ。
「そうだよ。これからは未知の領域に入っていくだろう。練習方法も多様化して、高レベルの戦いが始まるんだ」
人間は確かに日々精進して、新記録を生む。だがそれがいつまでも続くことなのか疑問に思う。人間は体の機能を100%使っていないといわれている。普段は80%ほどしか使うことができず、危機的状況になると残り20%を使うことができる。火事場の馬鹿力と言われる力だ。だがそれを試合の時に使うことができれば圧倒的に有利になる。天才と言われる人たちは意図せずその力を使っているのかもしれない。
一時的に力が増したり、視力が上がったり、俊敏に動けたりするのがそれかもしれない。だがそんなことをしていると、体に異変が生じはしないか。なぜ脳がセーブしているかを考えると、常時それを使えば生命維持に不具合が生じるからではないか。
「松ちゃんよ、急に静かになってどうしたんぢゃ?」
「いえ……もうすぐ21世紀ですから。どんな未来になるのだろうと思って。スポーツ以外にも何かが変わることに俺たちはついていけるのだろうかって……」
「そんな急激に変わるかしら?」
「わからんぞ。今でもわしが産まれた時代では考えられんようなことができたりするぢゃろう。あっという間に、変わるものぢゃ」
「空飛ぶ車!」
「自動調理器!」
「月への移住!」
花園、富士子、柔が思いつく未来を言っていると突拍子もない声が聞こえた。
「不老不死は?」
邦子がそう言うと、滋悟郎の方を向く。寄る年波には勝てない。今は元気だがそれが永遠に続くわけじゃない。でも、いつまでも元気でいてほしいと誰もが願う。だが滋悟郎はにやりと笑う。
「そんなものより、東京五輪ぢゃ!」
「えーもうやったじゃない。それに別に未来っぽくないし。やるなら今度は大阪とか名古屋とか札幌もいいわね」
「いんや! もう一度、東京ぢゃ。わしにはその未来が見える。それを見るまで死なん!」
「一体いつになるのかもわからないのに」
呆れ顔で柔は言うが、耕作は笑っていた。
「長生きしないといけませんね。ちなみに次の2000年の五輪はシドニーですよ」
「どこにあるんぢゃ?」
「もー忘れちゃったの。オーストラリアよ」
「おぬしらが新婚旅行に行った国か」
「そうよ。お土産沢山買って来たでしょ」
「ふん! あんなもの食ったうちに入らん!」
柔と耕作は年明けの休みを利用してオーストラリアへ新婚旅行に出かけていた。お互いに忙しい身なので、長期滞在はできなかったが五輪選考前のリフレッシュを兼ねて訪れていた。
「耕作さん、南半球での夏季五輪? 冬よね向こうは?」
「1ヶ月ほど開催時期を遅らせれば大丈夫じゃないかって話だけど、どうなるかな」
「柔ちゃん、もう次の五輪の心配してるの? 余裕ねー」
「そんなんじゃないですよ。ただの興味です」
柔は笑顔でいたが内心は不安だった。負ける事への恐怖を感じたことを忘れられなかった。
3月の肌寒い夜はまだ春の訪れの安らぎを届けてくれることはなかった。