夫の帰りを待つ妻なんてそんな可愛らしいこともう何年もしていない。帰ってこようとこまいと、どちらでもいいとさえ思っていた。連絡がなく遅く帰ってくることがあっても心配もしていない。彼女の中の夫の優先順位はかなり下だ。いつからこんな風に思うようになったのか、今はもうわからない。
午後9時すぎ。テレビを見ていた彼女は玄関に気配を感じた。狭い団地に長年いると何となくわかるようになる。頼りない夫を持てばなおさらのことである。
案の定、呼び鈴が鳴る。鍵を持っているのだから勝手に入ってこればいいのに、酔っているとわざわざ手間を掛けさせる。彼女はイラつきながらドアを開けた。
「自分で開けて……」
想像していた顔じゃない顔が目の前にいた。しかも若い女だ。
「羽衣課長代理の部下の猪熊です。新年会で飲み過ぎて歩けなくなってしまったようなので送ってきました」
「え、ああ。ごめんなさいね。さあ、どうぞ」
「すみません、お邪魔します」
柔は運転手と一緒に部屋の中に入り寝室の布団に寝かせた。すると羽衣はいびきをかいて眠り出した。その姿に彼女はとても恥ずかしくなる。
「御迷惑をお掛けして本当に申し訳ありません」
「気にしないでください。それではあたしは……」
「ちょっと、待ってください。タクシー代をお支払いしますわ」
「そんな、いいんですよ」
「そう言うわけには行きませんから」
彼女は財布からお金を出し、運転手に渡す。運転手はお釣りを取りに戻り、柔はその場に立ち尽くした。失礼とは思いながらも部屋の中をつい見てしまう。なぜなら、この部屋はあまりに殺風景で殆ど物がないのだ。
「もしよろしければ、少しお話しませんか?」
ふくよかな顔の細い目には表情があまり感じ取れない。柔は突然の誘いにうまい断り方が見つからず「少しなら……」と返事をしてしまった。
お釣りを持ってきた運転手は帰りも客を乗せれると思っていたのだが、空振りに終わり肩を落として車に戻って行った。
「帰る時にはまたタクシーを呼びますね」
「いえ、大通りに出れば大丈夫ですから」
「そう言うわけには行きませんよ。あなたは強いかもしれないけど、女性ですし」
「あたしのこと……」
「もちろん直ぐにわかりました。さきほどの運転手さんはお気づきじゃなかったみたいですけど」
柔は国民栄誉賞を受賞してから、街で声を掛けられることが多くなった。顔を隠すことはあまりしたくないが、人ごみに出る時は眼鏡をかけることもある。一人一人の声にこたえられないならば初めから声を掛けられないようにすればいい。そのため、出来るだけ身を潜め正体がわからないようにする癖がついた。だから柔はあらためて自己紹介をした。彼女もまた、名前を名乗った。
「どうぞ、インスタントですけど」
彼女はコーヒーを出した。柔はありがたくいただく。
「猪熊さん、ありがとうございます」
「え? 突然どうされたんですか。あたしはお礼を言われるようなことは何も……」
羽衣をタクシーで送ってきたことは既にお礼を言われている。他に思い当るところはない。
「主人はずっと窓際でした。仕事が出来ないのか、やる気がないのかわかりませんが在籍年数だけで係長になったようなものです」
「そんなことは……あたしは入社以来ずっとお世話になってますし」
彼女はふっと笑う。
「出世こそが男の道だとは言いませんが、ただ会社に行って何となく仕事をして帰ってくる人生を主人は続けていたんです」
柔はもう何を言っていいのかわからない。こんな話を聞いていいのかもわからない。
「あなたが入社してくるまでは」
「どういうことでしょうか?」
「三年前に主人が大きな仕事をしてきたと自慢したことがありました。口数は少ないですが、たまに冗談は言う人でしたのでその時も冗談だとばかり思ってました。でも、本当のことで主人は出世しました」
北海道での接待ゴルフだ。加藤忠商事とトヨ産自動車の接待ゴルフを鶴亀トラベルが請け負って、その添乗員に羽衣と柔が付いた。先方は柔だけ来てくれればいいと言ったが、新入社員を1人で行かせられるわけもなく羽衣も同行した。
しかし、二日目は全日本選手権と重なり本来なら柔はそちらに出場しないといけないが、何故か仕事を取ったのだ。絶対に来ないと思っていた柔が空港に来たとき、羽衣は自分の首が繋がったことに安堵したが今度は別の思いが込み上げた。こんなところで仕事してる場合じゃないと。そして羽衣は柔を朝一番の便で東京に帰し、試合に出場させた。このことでクビになるかと思いきや、やけくその接待でトヨ産自動車の専務を大いに喜ばせ仕事は無事成功し、会社に多大な利益をもたらした。その仕事を評価され、係長から課長代理に昇進したのだ。
「それ以降、主人は仕事に多少なりともやる気を出し始めたんです。いままでは目立ちもせず邪魔もしないような存在でしたのに、どういうわけかやる気を。柔道部設立の一員にもなったと言ってました。そのことも随分よろこんでいました。一時期とても落ち込んでいた時もありましたが、去年はずっとやる気に満ちていたように感じます」
羽衣が落ち込んでいたのは柔が柔道をしてなかった時期だろう。直属の上司の羽衣には随分会社内から厳しい声が飛んでいたことだろう。それを柔に一度だって言ったことも、態度で見せたこともなかったが。
「猪熊さん。あなたのお陰なんです」
「どうして、あたしの?」
「主人は仕事はきちんとする人です。ただ自発性がない。流されて生きてきたと言ってもいいでしょう。私と結婚したのもそうですし。でも、北海道の仕事以降は自発的に何かをしている様子でした。仕事もその他も。それはきっと好きな柔道とあなたに関わることが出来たからだと思います」
「それは買いかぶりすぎです。あたしこそ流されて生きてきたところがあって、課長代理には助けて貰うことも多くて。今日だってこんな状態になったのはあたしのせいなんです」
「どういうこと?」
「新年会で普段は接点のない社員とも話すことが多くて、あたしが困っているのを課長代理がわかっていてその人たちを遠ざけてくれてたんです。そのせいで、お酒をたくさん飲んでしまったようです」
「そういうことだったの。本当に仕方ない人ね」
この人はそう言う人だ。自己主張もなければ存在感もない。空気みたいな人。邪気がなく、人を陥れたり、裏切ったりしない人。物足りないし刺激もないけど、真面目で家族を大切にして不満の一つも言わない。出世と言う欲もなく彼女とは描く将来の温度差もあったけど、それでも彼なりに頑張ってここまで来たのだから感謝しないといけないのかもしれない。
「息子が中学受験に合格して、柔道を始めたんです。正直、柔道に興味があったことも知らなかったんです。学校も柔道部がある所を選んだみたいで」
「そうだったんですね。全然、知りませんでした」
「この人はそう言うこと話さないでしょうね。でも、息子にはよく柔道やらないかと言っていて、三年くらい前に大学の試合を見に行ったみたいで衝撃を受けたようなんですよ」
柔には心当たりがあった。花園が男気を見せるために猛特訓して臨んだ試合だ。準優勝と言う結果には終わったが、その熱意や強さは伝えたい人には十分伝わった。今は花園の妻になっている富士子には。でも他にも影響を与えていたようだ。
「息子は柔道の才能があるかはわかりません。でも今は楽しいと言って励んでいるんです。勉強とテレビゲームばかりやっていたのに、最近は目に見えて快活で充実しているように思えます。息子に柔道のきっかけをくれたのもやっぱり猪熊さんだと思うんです。バルセロナの試合は息子と二人で見ていました。自分にも出来るんじゃないかと思ったみたいであの子の心に火を点けたんです」
「そんな、あたしなんか……」
「夫と息子が熱意をもって日々を生きているのを私は冷めた目で見ていました。でも、心の中では彼らを羨んでいたんです。そして……あなたに……」
彼女の顔色が変わった。氷のような硬い表情に別の熱を帯びた意思が見えた。しかし深いため息を吐いてその意思を捨てたように見えた。そして作った笑顔を見せた。
「ごめんなさいね。こんなおばさんの話を聞いても何も面白くはないわね。時間を取らせて申し訳なかったわ」
彼女はこんなことを言うつもりはなかった。本当に感謝していることを伝える気だったのだ。それなのに段々止まらなくなった。自分では変えられなかった家族の心をこの人は変えた。そんなすごい人に会ってみたかった。話をしてみたかった。それだけなのに、目の前に座る世界的スターはどこにでもいるような若い女性にしか見えず、いつしか心の奥にしまい込んだ感情が滲み出ようとしてきた。これ以上話していたら傷つけてしまうかもしれないと思ったら、もう向かい合ってはいられなかった。
「タクシー呼びますね。お引止めしてすみません」
「待ってください。奥さまは何か勘違いをされています」