YAWARA!~2020 LOVE/WISH   作:いろいと

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vol.5 手繋ぎデート

 気持ちのいい午後だった。日差しが暖かくて、花の香りも微かにした。柔と耕作は二人で出かけた。まだ記者がいるかと思ったが、彼らもそこまで暇ではないようでいつもの静かな住宅街に戻っていた。

 河川敷を歩く二人。柔は昨日の疲れなんてないみたいに、颯爽と歩いていた。逆に耕作の方が飲み過ぎてぼんやりしているようだった。

 

「それでどこへ行くの?」

「どこでもいいの?」

「遊園地とか映画館はつらいかも」

「じゃあ、ケーキは?」

「喫茶店?」

「ううん、ケーキ屋さん」

「いいよ。甘いもの制限してたんでしょ」

「やったあ」

 

 試合前は体重測定があるから柔の場合は48kg以下に調整しておかなきゃいけない。甘いものは特に食べないように滋悟郎からもきつく言われていた。

 

「結婚してから日本でデートしたことなかったよね?」

「そう言われればそうだな。俺はほとんどNYだし、日本だと柔さんが目立って大騒ぎになるしな」

「だから今日は少し変装したんでしょ」

 

 レンズのない黒縁メガネと帽子で少しだけ変装している。じっと見ればわかるかもしれないが、すれ違ってわかる姿ではない。

 

「耕作さん?」

「どうした?」

「手、繋いでいい?」

「え?」

 

 上目づかいで言われると弱い。本当は恥ずかしくてそんなこと拒否したいが、柔が甘えたいときには耕作は笑顔で受け入れる。

 

「いいよ。手ぐらい繋ぐよ」

 

 耕作は力強く柔の手を握る。いつも思う。こんなに小さな手で戦っているのかと。

 

「富士子さんの赤ちゃん、フクちゃんと同じ日に産まれたら面白いね」

「そうだな。なんかあの二人ならそんな偶然が起こりそうな気がするな」

「うん。富士子さん、また大変になるんだろうな」

「羨ましい?」

 

 耕作の口からそんなこと言われるなんて思ってもみなかったから、柔は驚く。

 

「今はそんな風には思ってないわ。目の前の目標は五輪でのメダルだもの。そのあとはわからないけど。耕作さんはどう思ってるの?」

「俺は柔さん次第って思ってる。産むのは君だし。もちろん子育ては二人でするものだけど、お腹で育てて産むまでは一番大変なのは母親だからね」

「妊娠したら柔道できなくなるわ」

「そうだな。ブランク期間ができてしまう」

「それでも富士子さんやさやかさんは復帰したわ。そして強くもなった。あたしはそうなれるかしら」

「それだけの熱意があればだろうな」

「そうよね……」

 

 手を繋いで歩いているのに、どこか寂しく感じた。耕作は以前とどこか態度が違う。以前ならもっと熱を持って会話をしたし、背中を押してくれた。

 

「ね……」

「店ってどこ? 電車乗る?」

「あ……うん」

「どうした?」

「なんでもない」

 

 二人は平日昼間の空いた電車に乗り車窓を眺めていた。

 

「電車に乗るの初めてだな」

「何言ってるのよ。カナダから乗ったじゃない」

「いや、日本で二人でってこと」

「そうよね。いつもバイクだったものね。自転車だったこともあるわ」

「あれはバイクが壊れたから」

「まだしてないことってあるのね」

「俺たちは普通の夫婦よりも多いだろうな。二人とも忙しいし、離れてるし」

「でも、これからの楽しみになるわ」

 

 電車を降りて店に向かう。「エトワール」という大きなケーキ屋は以前来たことがあり、それからは柔のお気に入りになった。

 

「この店……」

「知ってるの?」

「店の感じは違うけど何年も前に来たことがある。記者になりたての時だったかな」

「へー、誰と来たのかしら? こんなにおしゃれなところ、男性同士では入らないわよね」

「取材だよ。それにたまには俺も甘いもの食べたくなるし」

「それで、誰と来たの?」

 

 困惑する耕作に柔は悪戯ぽっく問い掛ける。きっと昔の恋人と来たんだろうと察しは付く。それを嫉妬するほど柔は子供じゃない。

 店のガラス扉が開いて男の子とその父親が出てきて、少ししてから知った顔が出てきた。

 

「浅野さん!」

「あら、お久しぶり。元気だった? って、昨日の試合見たもの。元気に決まってるわね。猪熊さんもご褒美のケーキ?」

「はい。減量終わったんで、ちょっとだけ。来月にまた試合なんですけどね」

「今日くらいいいわよね。あ、五輪出場おめでとう」

「ありがとうございます。精一杯頑張ります」

「怪我しないようにね。ところで、こちらがご主人?」

 

 浅野は耕作の方を向くと、ニコリと笑う。

 

「あ……はじめまして、松田耕作……です。いつもつ……妻が……お世話になってます」

 

 照れているのか言いなれなくてなのか、言葉がうまく出ないみたいだ。 

 

「こちらこそお世話になってます。それからご結婚おめでとうございます」

「あ……ありがとうございます」

「今更だったかしらね?」

 

 そういう浅野に柔は笑顔で返す。

 

「そんなことないですよ。ありがとうございます。今日はご家族でケーキですか?」

「ええ、平日だけど二人とも休みで誕生日も近いし」

「おかーさーん!」

 

 遠くから浅野の息子が呼んでいた。

 

「もう行かなきゃ。じゃあ、五輪頑張ってね。応援してるわ」

「頑張ります」

 

 浅野は微笑むと家族の方へ歩き出し、柔は店へと入っていった。

 

「耕作さん?」

 

 柔に声をかけられてハッとする。

 

「ああ、ごめん。家族でケーキっていいよなって思って。あの人のご主人も甘いもの平気みたいだし。きっと幸せなんだろうなって」

「浅野さんはケーキの食べ歩きが趣味で可愛いイラスト付きで記録してるのよ。いつかまとめて本にしてほしいくらい。耕作さん、そういう伝手はないかしら?」

「言っただろう? ウチは出版部はないんだって。それに俺は殆どNYで無責任に紹介はできないよ」

「そうよね、残念だわ」

 

 再び店に入る柔。耕作はそれを追うように店に入り、安堵したような笑みを浮かべた。

 

「ねえ、何食べていい?」

「どれだけでもどうぞ」

「いいのかしらそんなこと言って?」

「もちろん。ただ後で苦しまなきゃいいけど。俺はそうだな、この星の付いたチョコレートケーキを」

「前にも食べたじゃない」

「だからこれなんだよ」

「おいしかったってことね」

「そうだよ」

「じゃああたしもチョコレートケーキとチーズケーキと……」

「おいおい、まだ食べるのか」

「あと一つ。苺タルト」

 

 あっけにとられる店員に柔は満足そうな笑顔で奥の席に座る。コーヒーも注文して二人はご褒美の甘いひと時を楽しんだ。

 

「あーさすがに食べ過ぎたわ」

「そりゃあれだけ食べれば十分すぎるだろう」

「たまに甘いものをたくさん食べたくなるのよ」

 

 帰りの河川敷には犬の散歩をしている人や川を眺めている人などがぽつりぽつりといて、二人はゆっくりまた手を繋ぎながら歩いていた。

 

「買い物とか行かなくてよかったの?」

「あたしはいいのよ。耕作さんはいいの?」

「俺も特にはないな」

「何か欲しいものがあったら送るわ」

「ありがとう。でも、NYにいてたまに恋しくなるのがラーメンだよな」

「ラーメン?? お味噌汁じゃなくて?」

「そう。俺は一人暮らしで自炊なんてしてなかったからいつもラーメンで手軽に食べれるのがよかったんだよな。向こうだとハンバーガーとか結構重いし」

「カップ麺もって行く? あんまり食べてほしくはないけど」

「だよな。でも、少し持っていこうかな」

 

 水面がキラキラと光って鳥が空を飛んで、平和そのもの。でも、明日には耕作はNYへ行きまた離れ離れ。

 

「来月、全日本だな」

「うん。あたし、勝てるかしら?」

「勝てるよ。当たり前だろう」

「でも、怖いわ」

「君のしてきた柔道は負ける恐怖に押しつぶされるほど、軟弱な物じゃないはずだ。根拠のない自信で畳に上がってたわけじゃないだろう。今までしてきた稽古や努力は誰にも負けない。負けるはずがない」

「そうよね……」

「不安に思っていることは俺もわかってるよ。重圧だってあるだろう。でも、一人じゃないよ。みんなが応援してる。それは背中を押すものだろう」

 

 家族、友人、会社の同僚、柔道部のみんな、そして今まで試合してきた世界の柔道家たちの顔が浮かぶ。そして最後にさやかの顔も浮かんだ。彼らは柔を奮起させてもくれたが、気持ちを軽くしてくれる存在でもあった。

 

「あたし、もう大丈夫だわ」

「本当かい?」

「あたしが柔道やってる理由ってバルセロナ五輪までは、お父さん、ジョディそして耕作さんだったの」

「俺?」

「そうよ。邦子さんにも言われたことあるの。耕作さんの気を引きたくて柔道をやめたりはじめたりしてるんでしょって。あたしはそうじゃないって否定してた。でも、お父さんが帰ってきて、ジョディとも試合してその後、引退して、耕作さんとは結婚してじゃあ今のあたしを動かすものって何だろうって思ったの。その答えが今わかった」

 

 柔は大空を仰いで深呼吸した。

 

「ずっと近くで見守ってくれた家族や富士子さんたち友達、会社の人たち。みんなはあたしの背中を押してくれた。もちろん日本中の期待は重たいけみんなはそれを軽くしてくれる。あたしを倒そうそ世界中の選手が一生懸命になってくれるけど、あたしはまだ負けたくない。そうはっきり思えた」

 

 手に力が入る。柔が柔道に対してこんなに強い前向きな感情を持つのは初めてかもしれない。

 

「あと、さやかさんには負けたくないわ」

「本人が聞いたら喜ぶだろうな」

「そうかな」

「そうだよ。今まで君はあまりさやかを相手にしてない感じだったし」

「そんなことないわ」

「でも、虎滋郎さんやかざ……のことがなければ気にもかけなかっただろう」

「あたしそんなに冷たい人間じゃないわよ」

「そうか?」

「何よ、心当たりでもあるの?」

「90年の全日本は仕事を取っただろう? 北海道の接待」

「あれはいろいろ相談した上で決めたのよ。それに結局試合には出たじゃない」

「誰に相談したんだよ。羽衣さんは違うだろう?」

「風祭さんに相談したら仕事を取るべきだって言われて……」

「なにー!! あいつ俺たちには柔さんに試合を優先するようにとアドバイスしたって嘘を!!」

「耕作さんは怒る権利ないわ」

「なんで?」

「あたし、耕作さんに相談しようとしたのよ。でも、全然話を聞いてくれなくてそれで風祭さんに……あの頃の耕作さんって本当に柔道しか頭になくて時々がっかりしてたわ」

 

 そう言われたらもう何も言えない。

 

「ごめん……」

「いいの。あの頃はあたしも自分の気持ちがはっきりしなくてフラフラしてることが多かったから、ちょっと態度がおかしくみえたのかもしれないわ」

 

 柔道と仕事、耕作と風祭。どっちも大切だからどうしたらいいかわからなかった。

 

「耕作さん。今日は何が食べたい?」

「もう、夕飯の話? おなか一杯じゃないの?」

「お腹空いてから考えても遅いから。材料買って帰らなきゃ」

 

 二人は手を繋いだまま歩く。二人でいる短い時間を精一杯楽しむように。

 

 

 


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