vol.1 さやかに忠告
たくさんのファンや友人たちに見守られながら、アメリカのアトランタに飛び立った選手団。さやかはもちろんこの飛行機には乗っておらず、別便のファーストクラスで向かうようだった。
開会式の2日前、柔のもとに思わぬ人物がやってきた。
「ヤワラー!!」
「ジョディー!!」
選手村の食堂で再開した友人は相変わらず大きな体と、大きな声だった。そして力いっぱい抱きしめると、柔は喜びを痛いほど感じた。
「久しぶりだわねー。調子はどう??」
「絶好調よ」
「それはうれしいね。クリスティンも喜ぶ」
「まさか、無差別級のカナダ代表って?」
「察しの通りクリスティンよ。ヤワラと戦うために苦しいトレーニングやってきた。試合を待ち望んでるだわよ」
ハミルトンでの世界選手権では苦戦を強いられた。そのクリスティンが再び立ちはだかる。
「あたしも負けないわ」
「その意気ね。でも、48kg以下級に出場しないのには驚いたね。代表のエミリーもがっかりしてたね」
「でもさやかさんは強いわよ。油断してると大変よ」
「おー怖い。あと強敵はアメリカ代表のアリシアだわね?」
「ええ、彼女も強いわ。そしてフランスのマルソーさん」
「でもみんな柔と試合できなくてがっかりね」
「そんなこと思う暇がないくらい、さやかさんは強いわよ。そう伝えておいて」
ジョディはカナダ代表のコーチの一人としてアトランタに来ていた。子供はルネに見てもらいこの五輪に力を注いでいる。
「あー!! ヤワラ!!」
呼ばれて振り返ると、金髪のポニーテールを揺らしながらアリシアが走り寄ってきた。
「久しぶりね。アリシア、元気だった?」
「もちろんよ。準備もしっかりしてきたし」
「気合入ってるだわね。柔と試合できないのに」
「それは残念だけど、仕方ないわ」
「約束は次回に持ち越しね」
「二人とも何の話ね?」
顔を見合わせて微笑む。
「あたしねサヤカと試合するの、とても楽しみなのよ」
「強いわよ。大丈夫?」
「ええ。ある意味最高のコーチに教えてもらったわ」
「ラスティさんやロイドさんじゃなくて?」
「ええ。サヤカのこともよく知ってる人。そして短い時間だったけど分析チームも作って研究したわ」
「すごい。それで誰なの?」
「内緒。思わず言っちゃうところだった。でも、ヤワラも日本代表だから言ったらダメね」
「別にいいじゃない。今更どうこうなるわけじゃないし」
「うーん、そう言われればそうね。ていうか、ヤワラ知らないの?」
「ええ。あたしの知ってる人?」
「だってコジロウよ」
「お父さん?? どうして?」
「ジゴロウの提案よ。コジロウのフランスでのコーチ契約が去年切れてて更新してないこと教えてくれたの」
「なんか、新しいコーチと契約したとか言ってたわ。お父さん、その人と合わなくて辞めたのよ」
「でも、それがラッキーだった。それなら交渉できるって思ったの。サヤカに挑むにはコジロウの力が必要だって思ったわ」
あの時の電話での滋悟郎の顔はそういう事だったのかと納得した。そこまでしてさやかを倒したいのかと思ったが、滋悟郎はきっと五輪を盛り上げるために考えた策だろう。目立ちたがりなさやかを安易に目立たせないために、刺客を差し向ける。白熱した試合展開になればそれだけ盛り上がるというわけだ。
「試合は7日目の26日よね。楽しみにしてるわ」
「あたしもヤワラの無差別級が見れるなんてとても楽しみ。でも、その前にさやかを倒すわ。彼女を倒さないとあたしはまた……」
「アリシア?」
ただならぬ雰囲気に柔は思わず声をかける。アリシアとさやかの間に何かあったのだろうか。
「ところでヤワラ、コーサクには会ったの?」
「耕作さん? いいえ、たぶんそろそろアトランタに来てるはずだけど」
「五輪が始まったらなかなか会えないんじゃないの。会っていた方がよくない?」
「そうだけど、あたしも時間がなくて」
「何かあるの?」
「開会式の旗手を務めるのよ」
「わお! 大役じゃない!」
「ヤワラはそれだけやってきただわさ」
「そんな……でも、なんだか緊張しちゃって」
「じゃあ、どこかで会ったら声かけておくわ」
「ワタシもそうするね」
「ありがとう、じゃあね」
耕作はアメリカ在住なので今回の五輪の記者を務めることになっている。野波と邦子も日本から取材に来ると聞いた。ジェシーを含めて二手に分かれての取材になるようだが、耕作は柔道の試合すべて任されている。しかし、まだ姿は見ていない。
でも、どこかにいると思えば心強い。開会式も取材でセンテニアル・オリンピックスタジアムに入ると言っていたからきっと柔の勇姿を見てくれるはずだ。
◇…*…★…*…◇
7月19日、アメリカ南部の蒸し暑い夜に開会式は始まった。1時間ほどパフォーマンスが行われ、選手入場。柔は少し照れながらでも誇らしげに国旗を持ち入場した。その後、式辞やオリンピック宣誓などを経ていよいよ聖火がともされる。誰がその大役を担うのか明かされてこなかったが、聖火台に立ったのはボクシング界のスーパースター、モハメド・アリだった。引退後、パーキンソン病を患い震える手で聖火を灯し、アトランタ五輪は開幕した。
大会7日目。どこかでトレーニングをしていたさやかがようやく柔道会場であるジョージアワールドコングレスセンターに姿を現した。もちろんジャージではなく、ブランドのスーツを身にまとい、風祭と共に颯爽と会場に入って行った。
着替えを済ませて勝手に作った寛ぎスペースに座って紅茶を飲んでいると、大きな体の女性が話しかけてきた。
「調子はどう?」
「絶好調ですわ」
「私はラスティ、よろしく。あなたの活躍はアメリカにも届いているわ。美しく無駄のない動きととてつもない強さは脅威ね」
「当然ですわ。私は強く美しいのです。だから今日も私に最も似合う色のメダルをいただきに来ましたの」
「ゴールド?」
「ええ、それ以外は必要ありませんし、それ以外になる可能性もありませんわ」
「随分、自信があるのね。ヤワラ以外は相手じゃないと」
「今や猪熊柔も相手ではありませんわ」
「それは恐ろしい。でも、思わぬ強敵がいるかもしれませんよ」
「ありえませんわ」
「そうですか。では、油断しないよういい試合を見せてくださいね」
ラスティは笑顔で去っていった。さやかは少々、棘を感じながらもあまり気にならなかった。
「今の人、ラスティ・カノギですよ。女子柔道の母と言われる」
「存じていますわ。彼女の功績ももちろん」
さやかは紅茶を含み、微笑んでいた。騒々しい周囲の状況とは次元が違うかのように、穏やかな空気が流れていた。
「さやかさんの相手になりそうなのはフランスのマルソーくらいでしょうか?」
「何をおっしゃいますの。マルソーなんて相手になりませんわ。今の私に立ちふさがる選手など存在いたしませんわ」
「それはどうかな」
無精髭とメガネ、パーカーを来た白人男性が立っていた。その風貌の怪しさから風祭はさやかの前に出た。
「大丈夫ですわ。この人は知り合いですの」
「知り合いですか?」
「ええ、あなたレオナルドでしょう?」
「よくお分かりになりましたね、サヤカ」
「その姿、幼い頃と変わりませんわね。とても個性的」
「今日は妹の応援だからね。目立ちたくないもので」
「そんなことなさらなくても、微塵も目立つことなどなくお帰りいただくことになりますわ」
「見くびっているね。アリシアは強いぞ」
「それは怖い怖い。でも、敵ではありません。あなたの妹はいつもそうでしたから」
そう言ってレオナルドを見るさやか。その目にははっきりアリシアのことが見えているようだった。
「進之介さん、徳永の戻りが遅いようです。探してきてくださらない?」
「え? ええ。おひとりで平気ですか?」
「心配していただいてありがとう。でも、大丈夫ですわ」
さやかは穏やかに微笑む。それに風祭も安心してそばを離れた。