「トクナガはまだ君のそばにいるんだね」
「ええ、でももう歳だからそろそろ暇を与えようかと思っていますの」
「寂しがるだろうね。ずっとサヤカの成長を見てきたんだから」
使用人の一人でしかないが、あまりに近くに長年いたのでさやかにとって家族以外で最も情を感じる人かもしれない。
「サヤカ、結婚、出産おめでとう。彼が夫だろう?」
「ありがとう。そういえば紹介してなかったわね。失礼したわ。先ほど、一緒にいたのが夫の進之介よ」
「君のお眼鏡にかなった人なんだね」
「ええ。彼は私の運命の人ですわ」
「もし君が柔道をしてなかったら彼とは知り合ってないだろう。そうなったら僕にもチャンスがあったかい?」
さやかは澄ました表情で答える。
「ないですわ」
「どうして?」
「あなたじゃ、釣り合いませんわ」
「僕はこれでもアメリカでいくつもホテルを経営するオーナーなんだけど」
「存じております。ですから釣り合いませんの。おわかりになって」
レオナルドはさやかの冷たい表情から理由を察した。
「相変わらずだね。君は大切なものをわかっている。だったらアリシアの事、ちゃんと相手してやってくれよ」
「相手になればですが」
「柔道歴はサヤカより長い。そして素晴らしいコーチを迎えてトレーニングをしてきた。いい勝負になると思う」
「素晴らしいコーチ?」
「ああ、コジロウさ」
さやかは一瞬驚いたが、声を出して笑った。
「今更あの人が出てきたところで、今の私にかなうほどの選手を育てられるはずもありませんわ」
「でも、サヤカのことをよく知ってる」
さやかの目つきが変わる。虎滋郎は長年さやかのコーチをしていただからその癖や弱点を知っている。
「それでも、あの頃の私ではありませんので、負けるなどということはありませんわ」
にらみ合う二人。そこに空気の抜けるような声が聞こえた。
「お嬢様、遅くなり申し訳ありません」
「徳永、迷子にでもなっていたの?」
「いえ、あの……」
「いいんですの。あら、進之介さんは?」
「あちらに知り合いがいたようでして」
「そう。出番はまだかしら?」
「もうじきでございます」
さやかの前にレオナルドの姿はなかった。だが、静かだったさやかの胸に少々熱を灯すだけの材料を置いて行った。
「そこまでした私が目立つのが気に入らないのかしら。どこまでも忌々しい猪熊家の人間ですわ。しかし、構いませんわ。完膚なきまでに打ちのめして差し上げますわ!!」
◇…*…★…*…◇
「松田さん! お久しぶりです。どこ行ってたんですか?」
「お前! 風祭! それはこっちのセリフだ。さやかとどこにいたんだ?」
「船ですよ。特設の道場を作ってそこでトレーニングをしてました。そして今朝、ヘリでこちらへ」
「おー優雅なもんだな。こっちは朝から晩までへとへとで仕事してるんだぞ」
「いいことじゃないですか。その合間を縫って柔さんともお会いになってるんですか?」
「いや。すれ違うことは何度かあったけど、向こうも忙しそうだからな。特に話はしてないな」
「いいんですか?」
「いいも悪いも仕事だっての! 柔さんの出番は明日だし、今日にでも少し話すよ」
「そうしてください。試合前は平気なふりして不安なものですよ」
あさっての方向を向いて風祭が言う。柔のことを言っているのかと思ったが、違う。
「さやかもそうなのか? あの高飛車なお嬢様が試合前には不安になるのか?」
「高飛車って……そりゃ人ですからね。いろいろな面を持ってますよ」
「おー、なんだか夫婦って感じだな」
「夫婦ですよ。そっちはそんな感じがしませんけど」
「うるせー。これからだよ。じゃあ、金メダル期待してるって伝えとけ」
「言われなくても、金メダル取りますよ」
もうすぐ一回戦が始まる。耕作は慌てて取材場所に戻った。忙しくて立ち話もろくにできない。
さやかのもとに帰った風祭はただならぬ空気に一瞬、しり込みするがここは引いてはいけないと思い声をかける。
「どうしました?」
「進之介さん。私、絶対金メダル取りますわ」
「ええ、誰も疑っていませんよ。あなたが一番です」
「当然ですわ! さあ、参りますわよ!」
選手通路を通ってさやかは大歓声の中を歩く。体重別の時よりも強くなったし、調子もいい。負けるなんてことはありえない。でも不安はある。虎滋郎の存在は大きいしアリシアの執念はきっと大きなものだ。
畳の上に上がる。礼をしてさやかはいつもの微笑みを消し去り試合に挑む。初戦のベラルーシ代表は難なく倒し二回戦に進出した。その後も勝ち進み、準決勝でマルソーと対戦することとなった。そのことにさやかは少々、嬉しそうにしていた。
「マルソーは前回大会で猪熊に苦戦を強いた相手だ。油断するなよ」
日本の選手団のコーチがそう言ったが、孤高の存在のさやかは誰の声も耳に入らない。
さやかにとっては今のマルソーを柔よりも早く倒し強さを誇示したいのだ。
試合開始の合図とともに両者激しい組手争いとなり、先に仕掛けたのはマルソーだった。柔に似た一本背負いにさやかは難なく対処した。似ているだけでやはり本物ではないのだ。そしてさやかの内股に倒れこみそうになったがマルソーもこれを回避。交互に技を掛け合い、それのどれも決まらない状態が続いていたが、二分半が経過したころさやかが寝技に持ち込み一本を決めた。
「筋はよろしいようでしたわ」
さやかが何を言ったのかわからないマルソーは、愛想笑いをしていた。礼をして畳を降りる頃、大歓声が上がりさやかの相手が決まった。
アメリカ代表アリシアとカナダ代表エミリーは、合わせ技一本でアリシアが決勝進出を決めた。さやかはアリシアを一瞥すると、自分の席に戻り汗をぬぐい、髪を整えた。
決勝が始まるまでの間、さやかと風祭、徳永は穏やかな時間を過ごしていた。周りの喧騒が聞こえないみたいに、ティータイムを満喫していた。
「アリシアとは柔道以外で何度か対戦したことがありますの」
「さやかさんが以前やっていた水泳ですか?」
「ええ。水泳、乗馬、テニスですわ。あの子は年下でしょう。私が始めるよりも遅く始めて、追い付く頃には私がその競技に飽きてしまうのでいつもあの子は二番でしたの」
「そうでしたか。でも、よく覚えていましたね」
「なぜでしょうね。必死に追いかけてくる姿が面白かったのね。でも、私はそんな彼女を待つ気にはなれなくて進み続けていました。でもいつの間にかいなくなっていましたの」
ジュニア時代、さやかを脅かす存在など存在せず、それはアリシアでも同じだった。ついてくる姿は愛らしいが、自分を目標にすることはないと思っていた。自分の道を進むことが強さになる。でも、今ならわかる。柔という倒したい相手がいて猛特訓した。今までしたことのない努力を長年していた。それでも届かなかったことへの苛立ちはあれど、あきらめは感じたことはなかった。でもそれは、柔が前を歩いてくれていたからだ。
そんな人がある瞬間いなくなったら、どうなっていただろうか。
アリシアはそんな思いをもう三度味わってきた。柔が柔道を辞めていた数か月。さやかは絶対に戻ってくると信じていた。だから女王の座を守っていた。
「さやかさん……」