テンプルトンホテルに着くと、大勢の報道陣でごった返していた。見知った顔もチラホラいたが、海外メディアも多くいた。
耕作はいい位置を確保し、さやかが出てくるのを待っていた。
その舞台裏で出番を待つ間さやかの姿があった。いつも自信に満ち溢れ何にも臆することのないさやかの背中が少しだけ寂しそうに見えた。
「大丈夫ですか?」
風祭が声をかけ肩を寄せた。
「ええ、もちろんですわ」
「ではあなたの言葉で伝えてきてください」
「行ってきますわ」
「陰ながら応援しています」
暗いバックヤードから光溢れる場所へ向かうさやか。カメラのフラッシュが目に痛いほどだ。
「お集りの皆様、お待たせいたしました。本阿弥さやかでございます」
相変わらず艶やかで豪華な衣装はまるでファッションモデルの様だった。
「本日、急遽お集りいただきましたのは、私、本阿弥さやかの今後についての発表をさせていただくためでございます」
記者たちがざわめく。そのざわめきをかき消すようにさやかは言った。
「私は本日をもって柔道界から引退いたします」
「引退だって! なぜです!?」
どこからともなく聞こえたその声は瞬く間に全員の口から出ていたが、さやかは態度を変えることなく淡々とマイクを持つ。
「17歳のころから柔道を始め今年で10年になります。私の目標は常に猪熊柔さんを倒すことでした。どんなスポーツも簡単に頂点に上り詰めてしまう自らの才能に恐怖すら感じることもありました。彼女の存在を知ってそれまでの人生がひっくり返るような過酷な10年でした。しかし私がスポーツをやっていたのはそもそも暇つぶしです」
会場の空気が止まる。
「語弊があるかもしれませんが、すべてにおいて完璧な私には夢中になれるものがなく何もかもが退屈でした。しかし柔道に出会い、目標ができ、努力を重ねたこの10年は本当に充実していました。猪熊柔さん、おじいさまには感謝申し上げます」
美しく頭を下げる姿に海外の記者からは感嘆の声が聞こえたが、日本人記者はいままでのさやかを知っているのでどこか嘘くさい気がしてならなかった。
「先の体重別ではほぼ私の勝利でしたが、感覚のズレでしょうか、勝利者は彼女になりました。しかし、私の中であの瞬間に区切りがつきそしてこのような結論を出すことを考え始めました。五輪に出たのも引退を考え最後に有終の美を飾るべく記念の様な形で出場することを承諾いたしました」
「相変わらずだな」
小声で耕作は言う。もちろん聞こえはしない。
「金メダルもいただき、これ以上ここにいる必要もありませんので各国の記者の方が集まっているこの機会に引退会見をさせていただきたいと思いました」
「ご質問があればどうぞ」
司会者がそう言うと続々と手が上がる。
「今後はどうなさるおつもりですか?」
「家業がありますのでそちらへ力を注ぎます」
「柔道とは一切かかわりを持たないと?」
「いいえ、経営者としてできるだけサポートをしていきます。柔道部の設立も考えておりますが、私が指導することはありません」
「ご主人もですか?」
「ええ」
「子育てのためではないのですか?」
「優秀なベビーシッターもおりますので、私は私にしかできないことをするまでです」
「日本は不景気だと聞きます。それも影響しているのではないでしょうか?」
本阿弥グループも不景気のあおりを受けていないわけじゃない。そして国民の心に余裕がなくなると、さやかのような金持ちを疎ましく思い嫌われることもある。そのせいで会社に影響が出る前に、表に出ることを控えた方がいいのではないかという意見もないこともない。
「全く見当違いですわ。不景気だと思うから不景気になるのです。本阿弥グループはそのような心配は一切ありませんわ」
その後も質疑応答は続いた。さやかは丁寧に答えていたが、もうかなり時間もたちそろそろ終了という空気が出てき始めた。
「決勝の後、トイレで泣いていたという情報があるのですが、それは引退することへの寂しさからの涙でしょうか?」
さやかは声の主を探す。そんなことを知っている人などいないはずだ。しかし手を挙げていたのは日刊エヴリーの松田耕作。さやかは観念した。
「確かにトイレに駆け込みました。メイクを整えるためです」
「そうですか、ありがとう」
これ以上、突っ込んできかなかった。だがこのことでさやかもやはり人の感情があったのだと誰の心にも残ったに違いない。
「最後にもう一つございます」
マイクを持ち直し、立ち上がるさやか。
「今年のクリスマスに私の自伝が全世界で発売となります。生まれてから今までのことをまとめた誰もが知りたかった私の過去と思いが詰まった一冊になりますでしょう。私からのクリスマスプレゼントですわ。ぜひ、お読みになって。それではごきげんよう」
さやかは出て行った。あっけにとられる記者たちはしばらく静止していたが、さやかの引退をいち早くまとめてしまおうと再びプレスセンターへと戻って行った。
◇…*…★…*…◇
時刻は午前一時を過ぎていた。
「ジェシーは現像したら帰っていいよ」
「コーサクはまさか、ここに泊まるの?」
「いや、終わったらもちろん戻るよ」
「わかったわ。じゃあ、さっさと終わらせようっと」
さやかの引退には耕作も驚いたが、ありえないことではないと感じていた。体重別で時間切れになったことでの抗議もなく、五輪代表に選出されると素直に出場した。不自然な点は多いけれど、それも何らかの変化を言えばそう捉えることはできる。
「こんなことなら風祭にもっと聞いておけばよかったな」
頭を掻きむしりながら記事にまとめる耕作。するとジェシーがやってきて写真を何枚かデスクに置いて行った。
「よく写ってるのを何枚か選んできたけど、どうかしら?」
「ああ、よく撮れてる。もう遅いからジェシーは戻っていいよ」
「コーサクは?」
「FAXしたら編集長に電話してくる」
「わかったわ。お疲れ」
ジェシーが帰ると、耕作は電話をかける。
「松田か。本阿弥引退だってな。日本じゃ大騒ぎだ」
「そうでしょうね。急な会見で何を言うかと思えば、引退ですから」
「お前の嫁さんは何か言ってたか?」
「今何時だと思ってるんですか。午前1時20……」
この時、ドンっという衝撃音と共に地面が揺れた。
「な……なんだ?」
「どうした、松田?」
「今、地震が……いや……」
耕作は受話器を放り出して辺りを見渡す。外国人の記者たちが同じように「何事?」と言わんばかりにキョロキョロしている。その時、誰かが叫んだ。
「爆発だ!オリンピック公園で何かが爆発した!」