「早く行かなきゃ」
ジャージから私服に着替えて滋悟郎が帰ってくる前に部屋を出た。もちろん書置きはしている。はやる胸を押さえながらタクシーを拾い、耕作の泊っているホテルに急ぐ。途中、軽く食べれるものを買って部屋に入った。
シングルベッドが二つあるそこまで広くない部屋だが、窓の外にはアトランタの街並みが見えて立地は悪くない気がした。でも、相変わらず部屋の中は散らかっていて、覚悟はしていたが片付けから始めた。
そうこうしてる内に、ドアがノックされた。
「柔さんいる?」
耕作の声を聴き間違えるなどありえない柔はすぐさまドアを開けて抱きついた。
「おかえりなさい!」
「ただいま。無事に来れてよかったよ」
「もう、子供じゃないんだから大丈夫よ」
二人は部屋の中に入る。
「おおー綺麗になってる」
「忙しいのはわかるけど……」
「はははっ。じゃあ、俺シャワー使うわ。もう、汗でベトベト」
「どうぞ」
金メダル獲った後なのにそんなこと全く感じない柔はある意味すごいなと改めて思う。そう言うところを耕作はバルセロナ以降、身近で見てきた。
「はー……どうしたらいいんだろ」
バスルームから出るとき、着替えがないことに気づいてそろーっと出ていく。
「着替え持っていくからそのままでいて」
「え?」
柔は洗濯したての綺麗な服を差し出した。
「どうしたの、これ?」
「ホテルのコインランドリーで洗濯したのよ。さっき乾燥が終わったからちょうどよかった」
「何から何まですみません」
「好きでやってることだもの。気にしないで。じゃあ、こっちへ早く」
狭い部屋のテーブルの上にはさっき買ってきた食べ物とワインが用意してあった。
「お祝いよ」
「金メダルを獲ったのは君なのに」
「金メダルのじゃなくて、結婚記念日のお祝い。今年は離れてたから当日にはできなかったでしょ。だから今ささやかだけどしておきたいなって思ったの」
7月7日は二人の結婚記念日。今年のこの日は五輪前ということもあって、全く時間が取れなかった。耕作はアメリカ、柔は日本。選手村に入っても試合までは滋悟郎がそんな浮かれたことに許可を出すわけがないから、二人は諦めていた。
「それなら言ってくれればよかったのに。帰りに何か買ってきたし用意したし」
「だって思い付きだもん。本当は五輪が終わってもっとゆっくりできるときにお祝いしたいなーって思ったんだけど、きっと日本に帰ったらまた数ヶ月は自由がないだろうし富士子さんが出産したら赤ちゃんい会いに行きたいしって考えたら、きっと冬になるわ」
「そうなったら誕生日にクリスマスか」
「だから今がチャンスなの!」
「こういう形もいいかもな。金メダル獲ってダブルでお祝いだ」
ワインをグラスに注ぐ柔。二人は乾杯をして久しぶりに顔を見て話をした。だがそうもゆっくりしていられない。日付が変わったのがわかると、耕作は立ち上がる。
「タクシー呼ぶよ。選手村に帰らないと」
「今日はここに泊まる」
「え? 滋悟郎さん待ってるだろう?」
「書置きして来たから大丈夫。あたしたち夫婦だしいいじゃない。試合も終わったし、明日は朝一番で戻るから。ねえ、いいでしょ」
「しかしな……」
「お仕事の邪魔にならないようにするから」
淋しそうな顔をする柔。帰国したらまた離れ離れの生活になる。そう思えば、これくらいのことはわがままにも入らないだろう。
「いいよ。今日はお祝いだもんな」
そうは言っても耕作も男だ。愛する妻が同じ部屋にいて、寄り添ってこられたら我慢できるかわからない。そんなことは柔にはどこ吹く風。暑いと上着を脱ぎだしたり、耕作の太ももの上に座ったりと試されているかのような態度をとる。
「や……柔さん。あの、俺……」
「ん?」
「俺……今日は無理っていうか。準備してないっていうか……」
「準備?」
「ああ、こんなことになるとは思ってなくて、その……持ってきてないから」
柔は「ああ!」とわかったような顔をして、ベッドに置いていある自分のバッグを探る。そして小さな四角形のものを取り出す。
「コレのこと?」
「え? 何それ?」
柔は恥ずかしそうに耕作に手渡す。五輪のマークの付いたそれは大人のアイテム。
「何でこんなものが」
「選手村に置いてあるの。バルセロナの時もあったんだけど、あたしはいらないと思って置いて来たんだけど、今回はもらって帰ろうって思って」
「聞いたことあるぞ。選手村に置いてる話。ただの噂話だと思ってた」
「あんまり聞けないものね。でも、だからと言って何であるのかはよくわからないけど」
「外国の選手も多いし、奔放な国の人もいるからそういう人のためかもな」
「で、コレがあればいいの?」
「そうだな。これがあれば君にもっと触れられるよ」
耕作は柔にキスをした。この数時間前まで試合して金メダルを獲った選手とこんなことをすることに少々後ろめたさがある。妻だけど、離れている時間が長くて選手として見ていた。でも、目を潤ませて見つめてくる柔はやっぱり耕作の妻で、愛する人だ。
耕作はカーテンの隙間から射し込む朝日の明るさで目を覚ました。隣にはほとんど裸の状態の柔がいる。やはり試合の後で疲れていたのか、愛し合った後そのまま眠ってしまったのだろう。耕作も同じで、連日の取材と前日のプレスセンターでの睡眠じゃ体が休まらない。ただ、柔が金メダルを獲った興奮状態と久しぶりの夫婦の時間にその間だけは疲れなんか忘れていた。
ベッドを出る耕作はシャワールームへ。汗を流し目を覚ましたところで出ていくと柔がベッドの上でなぜかシーツにくるまって体育座りをして思いつめたような顔をしていた。
「おはよう、どうしたの?」
「おはよう……ございます。シャワーいいですか?」
「うん……」
風のようにすり抜けていく。昨晩の事でも思い出して恥ずかしくなったのだろうか。柔にしては大胆な誘い方をしてきたことはもちろん記憶にある。
10分ほどして出てくると、真っ赤な顔をしていた。
「あの……昨日はなんか、はしたないことを……」
「疲れてて酒がよく回ったんだろうな」
「あれはその……わざとではなく……」
「嬉しかったよ。柔さんもそういう気になってくれるのはとても嬉しい」
「そうですか。でも、恥ずかしいので……期待はしないでください」
早朝の時間帯。まだ外は静かで若干涼しかった。
「こっちこっち」
耕作に連れられ向かうと、黒いバイクがそこにはあった。
「これジェシーのやつ。鍵借りたからこれで送っていくよ」
「いいの?」
「タクシーより安全だと思うけど」
柔はにこにこして耕作の背中にしがみついた。昔は何度かこうやって耕作の後ろに乗せてもらうことがあったが、ちょっと遠慮気味に乗っていた。でも今ならそんな必要はない。
「おいおい、そんなしがみつかなくても」
「だって、嬉しいもの。耕作さんの運転は荒っぽかったけど、あたし結構好きだったの」
「そうか。でも荒っぽかったのは君のせいでもあるぞ」
「わかってますよ」
「じゃあ、行くぞ」
ヘルメットを二つ借りると言ったら、ジェシーは察しがついたみたいでニヤッと笑った。戻ったらきっと冷やかされるのかと思うと、憂鬱で仕方ない。
選手村はさほど遠くないのですぐに着いた。柔は軽やかに降りるとヘルメットを返して見送った。
「気を付けて、残りの取材も頑張って」
「ああ、お疲れ様。日本戻ったらゆっくりしろよ」
「うん」
柔はこっそり選手村の自分の部屋に戻る。滋悟郎はまだいびきをかいて眠っていたが、柔は眠る気にはならず部屋で白鳥の湖のテープを聞いてぼんやりと外を眺めていた。