vol.1 親友に会いに
アトランタ五輪が無事に閉会し2ヶ月余り。柔は案の定、テレビやイベントに引っ張りだこで会社での仕事もできず、プライベートな時間もあまりとれない状況だった。
耕作の誕生日には電話をしたし、プレゼントも送ったがお互いに会える予定は立てられない状態だった。その上、柔は9月に入ってからとても体調がすぐれないことが多く、稽古も休みがちだった。このことからもよく取材で「引退説」が出ていたが、滋悟郎がその都度否定してきた。
ちょうどそのころ、富士子から電話が入った。
「久しぶり、猪熊さん。毎日テレビで見てるわよ」
「富士子さん! 久しぶり。体調はどう?」
「すこぶるいいわ。猪熊さんの方がよっぽど心配だわ」
「五輪で疲れたのかしら。何だかぼんやりすることが多くて。体調もすぐれないのよ」
「頑張った人をこれでもかって働かせるこの風潮、本当によくないわね。ねえ、もしよければ静岡に遊びに来ない?」
「でも、ご迷惑にならないかしら? もうすぐ予定日よね?」
「予定日まであと一週間。早く生まれるかもしれないし、フクちゃんと同じかもしれないし。でも、あたしをだしに息抜きに来てもいいのよ。滋悟郎先生もそれなら許可するんじゃないかしら。それとももうスケジュールはいっぱい?」
「そうね。再来週まではなんだかんだと予定があるけど、それ以降なら何とかなると思う。赤ちゃんを見て、温泉でも入ってゆっくりしようと思うわ。ありがとう富士子さん」
そう約束をして1週間後、富士子は予定日である10月10日に第二子の男の子を出産した。このことは、あまり知られることはなくひっそりと仲間内だけで情報が伝わった。
そしてその1週間後、柔は早朝に静岡に向けて出発した。10月下旬の肌寒い風が吹く中、向かう足は軽やかだった。
そしておよそ2時間後には伊東駅に到着した。
「おーい、こっちだ!」
声がする方を見ると、大きな体が車の窓からあふれんばかりの花園が手を振った。
「花園くん! ごめんね、大変な時に迎えに来てもらって」
「いや、構わんさ。それより電車で大騒ぎにならなかったか?」
「大丈夫。結構、変装名人になったから」
「そうか。じゃあ、行くか」
富士子はすでに退院していて、赤ちゃんと実家へ戻ってきている。今日は日曜日だから花園の学校も休みで柔の迎えに来れたのだ。
以前、静岡に来た時には富士子の実家に泊まらせてもらった。その時は、富士子の両親から盛大にもてなしを受けて恐縮しっぱなしだったが、今日は旅館を手配している。生まれたばかりの赤ちゃんに会って、富士子と話したらそこに向かうことにしている。だから少し気が楽だった。
富士子の実家はお茶屋なので、近くを通るといい匂いがする。お茶の葉にはリラックス効果があるのかもしれないと感じながら、お邪魔する。すると富士子が一目散に玄関先までやってきた。
「いらっしゃーい。遠いところをありがとう。一人で大丈夫だった?」
「大丈夫よ。それよりおめでとう富士子さん。男の子だって」
「そうなのよ。大きな子よ。名前は士郎っていうの」
「それはまた勇ましい名前ね」
「ええ、だってこの子には柔道をやって欲しいから、強そうな名前にしたいと思ったの」
「そうだぞ。五輪に出場できるような選手になって欲しいんだ」
「おじいちゃんが喜ぶわ。だってこの前言ってたじゃない。東京五輪はまたあるって。士郎くんが大きくなるころにはそんな未来が本当に来てるかもしれないもの」
「そうだな!!」
花園は鼻息を荒くする。自分が果たせなかった夢を息子に託すのは間違いかもしれないけど、あえて避けるようなことはできない。
「おじいちゃん、幻の東京五輪に出られなくてとても残念がってたし、戦後にあった東京五輪には出られなかったから思い入れが強くて、夢を見てるのよ。そう何度も同じ都市で五輪なんてないわよね」
「ないこともないぞ。ロサンゼルスやパリは二度やってると思うぞ」
「そうなると、東京の二度目もあり得るわね!」
「そうかしら」
「夢は大きく持たないと! 滋悟郎先生の夢を俺たちの子供が果たせたらそれは本望だ!」
「そのためにはしっかり稽古しないとな!」
何だか熱くなってる二人を横目に柔はすやすや眠る士郎を見ていた。ふくふくしたほっぺに小さな手を握り締めていた。
「かわいいわね」
「でしょー。フクちゃんとはまた違った可愛さよね。あたしに似てるのかも」
「そういえばフクちゃんは?」
家の中にいる気配がない。お店の方にいるのだろうか。
「柔道教室に行ってるのよ。あたしも妊娠前には行ってたところなんだけど、子供もできる教室もあってフクちゃんも興味ありそうだったから教えてもらってるの。家に道場があればあたしたちが教えるんだけど……」
「普通は道場なんてないわよ。でも、フクちゃんも柔道好きになってくれるといいんだけど」
「でもね、女の子だからなのかバレエの方にも興味があってね」
「可能性が広がるわね」
花園がお茶とお菓子を持ってきてしばらく近況報告などをした。五輪の事とか富士子たちの事とかいろいろ話した。
「猪熊のところは子供のことはまだ考えてないのか?」
「うちは離れてる時間の方が長いから。それに柔道のこともあるし」
「そうよね。アトランタでは少しは話せた?」
「それはね、時間を作ったから。でも、あたしは試合が終われば後は帰国するだけなんだけど、耕作さんはずっと仕事だから」
「やっと結婚したのに寂しいよなあ」
「まあ……ね」
お茶をすする柔。寂しさは感じているけど、どうしようもないことだとも思ってる。
「そう言えば、本阿弥さやかの引退に日本中が驚いたわよね。猪熊さんにもマスコミが押し寄せたんじゃないかしら?」
「ええ、コメント求められたり、あたしの引退時期についても聞かれたわ。特に決めてはいないけど。それに次の五輪についても目指すのかどうかって聞かれたけど、終わった直後に言われてもまだわかんないし」
「そうよね。最近体調もすぐれないって言ってたし、そこは大丈夫なの?」
「心配かけてごめんね。ただの疲れよ。今日から温泉入ってゆっくり休むわ」
話し始めて1時間ほどたった頃、花園は富薫子を迎えに行くと言って出て行った。
「お茶のおかわり入れるわね」
「あたしも手伝うわ」
二人で台所に立つ。この感じは久しぶりだった。
「ねえ、猪熊さん。体調が悪いって言ってたけど、眠気とか頭痛とかそういうのもあるのかしら?」
「テレビの収録なんかしているととても眠い時があるわ。頭痛も時々あるわね。体も痛いことがあって、おじいちゃんにいろいろしてもらったけど、あまりよくならなかったの」
「そうなの。熱が出るとか風邪のような症状は?」
「微熱が結構続いててそれもあって眠気と頭痛なのかなって」
富士子はうーんと考え込んだ。
「もし可能性がないならはっきり否定してほしいんだけど、結構あたしの時と似てるから言うわ」
「うん、なあに?」
「妊娠してるんじゃないの?」
「え? そんなはず……ないとは言えないかも……」
「アトランタで何かあったのね」
「無差別級が終わった夜に耕作さんの泊ってるホテルにいったのよ。そこで、まあ……」
「したのね」
富士子は顔を近づて言うもんで、白状せざるを得ない。
「……ええ。でもね、生理はあったの」
「少しじゃない? しかもちょっと予定より早くなかった?」
「うん。それこそ疲れやストレスからかなって」
「妊娠の初期症状に似てるわ。一概にそうとは言えないけど、心当たりがないわけじゃない上にその様子だとありえなくもない。それに少しふっくらしたようにも見えるけど」
「そうなの。甘いものが無性に食べたくて、でもだるさもあって。何が何だかわからないの」
「柔道の稽古はどうしてるの?」
「実はそんなにしてないの。おじいちゃんも息抜きが必要って思ってるのかもしれなくて、あんまり言わないし。だから太ったのかもとは思ってたの」
「滋悟郎先生は気づいていたかもしれないわ」
「おじいちゃんが??」
「アトランタで外泊をしたのを知ってるのは先生だけでしょ。同じ部屋だったんだものね。もしかしたらって思っても不思議じゃないわ。だから無理な稽古をしなかったんじゃ……」
思い起こせばそんなきもするけど、それなら柔は滋悟郎が黙っていなんじゃないかとも思った。
「なんにせよ一度、病院に行った方がいいわ。万が一ってこともあるし。松田さんにも相談した方が」
「でも……まだ、決まったわけじゃないし」
「何を言ってるのよ。夫婦でしょ。間違っててもいつかそういうことになるんだし、一緒に考えてもらわないと。猪熊さんだけが悩んだりすることじゃないのよ」
「うん……でもね……ちゃんと赤ちゃんできないようにしてたのよ」
「でも、失敗することはあるわ。絶対なんてことはないもの。実はフクちゃんを妊娠した時もそうだったの。お互い初めてだったからよくわからなくて。もちろん着けてはいたけど実際妊娠したわけだし」
「そうよね。そういうこともあるわよね」
「だからね、そんなことを考えるよりも事実を確認して話し合いよ。ちょうど五輪も終わって時期はいいし、不安に思うならなるべく早く病院行った方がいいと思うわ。不安にさせたのはあたしなんだけど」
「うん……」
士郎が泣き出した。慌てて富士子が見に行く。士郎を抱く富士子を見ていいなと思う。それは富薫子の時にも思った。交代でミルクをあげて泣いたら抱っこして。その時に、耕作が取材に来て富薫子をあやしてくれた。ミルクをあげる柔に耕作が「いつ赤ちゃんが生まれても安心だな」なんて言うからあの時は照れて「相手もいないのに」と答えていた。でも、あの時はもう耕作に思いがあったから、疑似夫婦みたいになって楽しかった思い出がある。
「富士子さん、あたし本当は羨ましかったの。フクちゃんがいてさらに妊娠した富士子さんが。どんどん家族になっていく姿が羨ましくて。あたしたちは結婚しても離れ離れで子供を産むことも二人だけの問題じゃないし。窮屈だなって思ったの」
「隣の芝生は青く見えるってやつよ。あたしは、猪熊さんたちの二人だけの結婚生活にも、結婚前のNYで生活にも憧れた。年上で頼りになるのも羨ましい時もある。だからといって花園くんに不満があるわけじゃないのよ。あたしの実家で同居もしてくれて、教員にもなってくれて結構幸せなの。でも、時々思うの」
富士子はバルセロナ五輪の表彰式の写真と銅メダルを見て思う。
「あの時、フクちゃんがいなかったら勝てなかったかもしれない。でも、いなかったら銀メダル以上を獲れたかもしれない。柔道ももっと続けてもっと強くなれたかもしれない。花園くんも五輪に出て一緒にメダルを獲れたかもしれないって、どうしようもないことをふと考えてしまうことがあるの」
士郎を愛おしそうに見つめる富士子。
「でもね、そんなこと考えるだけ無駄。なるようにしかならない。運命ってことじゃないの。結局、人ってなりたい自分に向かって進むの。時期はめちゃくちゃかもしれないけど、結果は同じよ。二人目が欲しいねって話してたけどずっとできなくて、でもやっぱり産まれた。もしこの子を妊娠してなくても、きっと考えを変えて別の未来を夢見るのよ」
「人生は思い通りに行かないけど、思い通りに向かわせることができるってこと?」
「そうよ! 滋悟郎先生なんてその最たる例よ。自分の夢をかなえることができたもの。猪熊さんがどれだけ嫌がってもね」
「そうね。おじいちゃんの力は凄まじいから、みんな引っ張られるの」
「だから大丈夫。世間が何を言おうとも、滋悟郎先生が何とかしてくれる。守ってくれる。松田さんもそうよ。あたしたちも、みんなそう。応援する気持ちは変わらない。あなたに貰ったものを返させてほしいの」
「貰ったもの?」
「かけがえののないものよ。それは言葉では言えないし、物でも返せない。そういうもの」
優しい笑顔で富士子は柔を見る。柔は富士子を救ってくれた。バレエができなくなって心が空っぽになったときに柔道に出会わせてくれた。夢中にさせてくれた。五輪にも行って一緒に泣いた。
「じゃあ、妊娠してたらいろいろ教えてね」
「もちろんよ! 先輩ママに何でも聞いて!」
柔は士郎を抱っこさせてもらう。小さな体は腕に収まる。暖かくて柔らかい。大きな瞳が柔を見て笑う。それを見て胸が暖かくなった。