vol.1 会いたい人
こんなに落ち着かないのも初めてだった。
小さな窓から外を見ると、眼下に霞んだ白い雲が浮かびその上を滑るように通り過ぎる。何度も見てきた風景なのに、胸がドキドキするのはこの航空券が安かったことで心配しているからではない。
そう、あと1時間ほどで会える人を思うと、夜も眠れないほど胸が高鳴った。本当なら眠っていたほうが、肌の具合や体力的には都合がいいのだが、そんなに心はいうことを聞いてはくれない。昨夜、消灯した機内でも柔は夢うつつの中、何度も幻の彼に会っていた。
「松田さん……」
小さなため息が混じるその声に返答する者は、今はいない。
◇…*…★…*…◇
ニューヨークでも朝は静かだ。人々がまだ家の中にいる内は街自体も起きる準備をしているように、落ち着いている。テレビで見るようなゴミゴミとした街並みになるのはもう少し時間が掛かるだろう。
窓から差し込む朝日が目に刺さり時計を見た。もう何度目かわからない。だが今回は書きかけの原稿を机に放りだし鞄の中に財布、ガイドブック、カメラなどを詰め込み肩にかけた。部屋を出る前、滅多に開けない窓を開けた。
真冬の冷たい風が入り込んできた。思ったよりも寒く、気持ちがピンとする。昨晩はとてもじゃないが眠れなかった。だけど、眠たいなんて思わなかった。
「柔さん……」
机の上にある写真立てにはバルセロナ五輪の女子柔道無差別級決勝で柔が宿命のライバルであるジョディ・ロックウェルを一本背負いしている写真が飾られている。この写真を見るたびにあの時の感動と興奮が蘇り、仕事にも一層熱が入る。
この写真を飾っているのはそのためだ。普段の柔の写真を見たら会いたくてたまらなくなる。そうなると仕事が手につかなくなる。折角のアメリカでの記者修業。いい加減な仕事は送り出してくれた全ての人を裏切ることになる。仕事はしっかりしなくてはいけない。だからこそ、この写真だ。
でも、今日は違う。すっかり青空になったニューヨークの空を見上げて思う。
――早く会いたい。
午前到着の便でニューヨークへやってきた柔は、海外へ一人で行くのは二度目。前回は親友ジョディの結婚式に出席するためにソウル五輪後、単身でカナダの地を踏んだ。
あの時は柔道をやめようと心に決めていた。それでもジョディの熱に押され、披露宴の余興でクリスティン・アダムスを相手に試合をした。本意ではなく行われた試合だが、クリスティンの強さに手が抜けず結局一本背負いで勝利した。そんな試合を見せた後にジョディに「柔道をやめる」と告げた時の哀しそうな顔を思い出すと、柔は今でも胸が痛む。でもあの時は本当に柔道をやめる決意をしていた。父である虎滋郎が家を出たのが自分のせいなんだと確信したことで、みんなを不幸にしたんだと思ったからだ。
「NEXT!」
突然聞こえた無愛想な男の声に柔はハッとする。入国審査官の恰幅のいい黒人男性が不機嫌そうに柔を見ている。慌ててパスポートをだし、提示した。
「滞在期間は?」
「三日間です」
「目的は?」
「観光です」
「泊まる所は?」
「テンプルトンホテルです」
「職業は?」
「会社員です」
「帰りのチケットはあるの?」
「はい」
「アメリカは初めて?」
「はい」
終始無愛想な入国審査官はじっと柔のパスポートを見て、首を傾げる。だが目の前の女性が何か悪いことを企てているとも思えないし気のせいだろうとパスポートを返した。仕事とは言え毎日同じことを聞いては同じような答えが返ってくるこの流れに、もう何年も前から嫌気がさしている。
「おい、今のヤワラ・イノクマじゃないか?」
隣にいた同僚が聞いてきた。
「ああ、パスポートにはそう書いてあった」
「なんだって!バルセロナ五輪のメダリストじゃないか!気づかなかったのか?」
「え?」
「ジュード―のメダリストだよ!あんなに小さいとは思わなかったな」
柔を担当した審査官は今はもう遠い柔の後ろ姿をながめて、思い出す。バルセロナ五輪での女子柔道無差別級決勝戦は見るもの全てを魅了した。どちらを応援していたわけじゃない。小さなアジア女性がカナダの重量級の選手と死闘を繰り広げているのをただ見ていたつもりだったが、気づけば立ち上がり拳を握り、家族総出でテレビにかじりつき見守った。
そう、あの時は久々に胸が熱くなったのを覚えてる。その後、金メダルを取ってアメリカのテレビでも特集されていて驚いたのが、物心つく前から柔道をやっていたと言うこと。すさまじい努力と熱意だと感じた。
それなのに自分は、ほんの10年ばかり入国審査をしているだけで、嫌気がさすなんて生ぬるいな。自嘲気味に笑うと男は声を張り上げた。
「NEXT!」
今までは柔道の試合で来ていたのであまり考えもせず、飛行機に乗ったり降りたりしていた。鶴亀トラベルに就職して、やっと搭乗の仕方や手続き何かを知ったが、入国審査を通ったり荷物を受け取ることを一人でやるのには戸惑い思いの外時間が掛かった。
荷物は大きなトランクケースが一つと手荷物が少々。柔はそれを抱えて出口へと急いだ。
小柄な柔は大柄なアメリカ人に埋もれてしまい、どこにいるかわからないはずなのだが耕作は長年培ってきた柔眼で瞬時に発見し手を伸ばした。柔もまたどんなに大音量の中でも聞き取れる、松田ボイスを聞き取り手を伸ばした。
「柔さん!」
「松田さん!」
もみくちゃにされた柔は、恥ずかしそうにセミロングの髪を整えると見上げるように微笑んだ。耕作も折角つないだ手を離して、頬を人差し指で掻くと照れたように笑う。
「ひ、久し振りだな」
「そ、そうですね」
妙に意識し合う二人は、選手と記者と言う関係から恋人同士になり初めて向かい合う。今までが今までだから、照れや恥ずかしさが大きいがそれでも二人はこの日を心待ちにしていた。
英語での会話文はフォントを変えています。