「待ってください。奥さまは何か勘違いをされています」
「どういうこと?」
「課長代理と息子さんを動かしたのはあたしじゃありません。北海道の件をどのようにお聞きになっているか分かりませんが、あたしは柔道より仕事をとりました。全日本選手権には出ないつもりでした。そうしないと契約が結べないと思っていたからです。でも、課長代理はあたしを東京に帰しました。そして試合には間に合い、優勝しました」
「でも仕事は上手くいったと言っていたわ」
「そうです。柔道ファンだった先方はあたしが北海道に行くことで契約をしてくれるはずでした。そのあたしが途中で帰って本来なら何もかもが終わりになるはずだった。会社の皆もそう思っていました。しかし、翌日出社した課長代理は契約を取って仕事は大成功に終わりました。多分、あたしがいただけじゃあんな大きな契約は取れませんでした。あれは課長代理が柔道の試合を取引先の方と一緒に見て、楽しんでくれたおかげなんです」
「だったらやっぱりあなたのお陰じゃないかしら」
「違うんです。あの日、課長代理があたしを東京に帰したのは、あたしに柔道をさせるのが目的でしたけど、そう思わせたのは新聞記事なんです」
「新聞? この人が毎日読んでいるあのスポーツ新聞?」
「はい。日刊エヴリーです。その中であたしの記事を書いてくれる記者が松田さんです。課長代理は松田さんの記事をとても高く評価して、その上であたしのことを知って下さったんです。松田さんが書く記事は熱意があり毎日の楽しみだと言っていました。松田さんの記事があったから、あたしに仕事じゃなくて柔道をしろと言ったんです」
「でも、自分のクビのことは考えなかったのね。それは私たちのことをないがしろにしたってことじゃないかしら。結果的には昇進したけど、一歩間違えたらクビよ」
「それは、否定できませんがそのどうにでもなれって言う解放が、課長代理の本来の力を出したんだと思ってます」
柔が帰った後、何もせずただ平謝りしていたら仕事は失敗し、クビは飛んでいただろうが羽衣は全てを取っ払い、立場も考えずにただ柔道観戦を楽しんだ。それが功を奏したのだ。
「息子さんの件も同じです。あたしが試合をしたのを見て興味を持ったんじゃないですよね。大学の柔道の試合です。あれは男子柔道です。しかも重量級でした。迫力が違っていたと思います。どうしてそこにいたのかわかりませんが、息子さんは彼らの迫力ある試合に感銘を受けたんだと思います」
「バルセロナ五輪での試合も息子は食い入るように見てましたわ」
「そもそも柔道が好きじゃなきゃ見ないですよね。そのきっかけは大学柔道であり、それに連れて行ってくれた課長代理です」
柔の試合は多くの人を感動させた。だれかの勇気や原動力になったかもしれない。でも、全てじゃない。そんな影響力が自分にはないと柔は思っている。
「あたしは物心つく前から柔道をやっていて、自分が強いことも知らなくていつの間にかこんな風になってたんです。柔道の才能があるとか、環境がいいとか言われましたがあたしはそれを望んだことはありません。これを言うと贅沢だと言われそうですけど、本心です。あたしは金メダルも国民栄誉賞も望んでいたことじゃないんです。望んでいたのは祖父ですから。あたしは祖父の夢を叶えただけなんです。あたしには別の夢があります。本当に平凡なものですけど、それを叶えさせてくれる環境じゃなかったんです。だからその夢を叶えている人をあたしは心から羨ましく思います」
「ないものねだりかしらね」
「はい。人は自分にはない物を羨ましく思うものです。あたしは自分が望むものを得るためには、祖父の夢を叶えなくてはいけないと漠然と感じていました。柔道よりもしたいことをするためには祖父の夢をあたしが叶えなくてはと。祖父もまたあたしを羨んでいたんだと思います。自分ではなし得なかったオリンピックの夢をあたしに託したんです。本当に勝手なことですけど」
「人の夢を託されるのは辛いことよね?」
そう言う彼女も息子に私立受験をさせたのは、息子のためと言いながらも結局自分のためだった。自分が望む学校を受験しないと言った時、激しく動揺した。息子のためなら息子が行きたい学校でいいはずなのに、それを受け入れるのにとても時間が掛かったのは中学受験の合格を自分の夢にしていたから。息子は言い出しにくそうに母に言った。このことが母親を傷つけるかもしれないと分かっていたら。母の夢を裏切ることになるかもしれないと感じていたから、辛そうに顔をしかめて言葉を発したのだろう。
「ええ、でも人は多かれ少なかれ人の夢を背負って生きているものではないでしょうか。あたしの柔道にはたまたまそう言う人が多かったけど、普通にあることだと思います」
耕作の夢も虎滋郎の夢もその他、柔に関わった多くの人の夢を柔は背負っていた。それに気づいたのは最近になってからだが。柔道と向き合い多くの声を貰うようになってその考えに辿り着いた。
「普通に、ある?」
「課長代理は言ってました。北海道での仕事が上手くいった時に『私立受験もマイホームも何とかなりそうだ』と。電話でしたが泣いていたようにも聞こえました。課長代理にとっての夢だったかもしれないですけど、この二つはどちらかと言えば奥様の夢だったのではないでしょうか。それに……」
柔は辺りを見渡す。ずっと不思議に思っていたこの部屋。何となく察しがついた。
その時、玄関で鍵を開ける音がして扉が開いた。
「ただいまー」
「勝男どうしたの。今日はお友達の家に泊まるっていってたじゃない」
勝男は荷物を置いてこちら側に背を向けて靴を脱ぎだした。
「そうしようと思ったんだけど、明日引っ越しだから気になって帰って来た。父さんも新年会でどうせ飲んでくるだろうし。母さんだけじゃ心配だろうって、お客さん?」
玄関にあるパンプスを見て勝男は思わず言った。
「お邪魔してます。お父さんの部下の猪熊です」
「え! 猪熊ってあの猪熊柔?」
「勝男失礼でしょ。ちゃんとごあいさつしなさい」
柔は二人のやり取りを微笑ましく見ていた。三年前、まだ小学生だった頃の勝男とは会ったことがある。その頃はわがままでやんちゃな男の子と言った感じだが、今は体も大きくなり落ち着いた男の子になっていた。
「父さん、こんなところで寝てるの?」
「いいから着替えてきなさい」
「はーい。あ、猪熊さんあとでサインちょうだい。ね、いいでしょ」
「ええ、構いませんよ。あたしのでよければ」
「やりー、あいつらに自慢してやろ」
勝男は奥の部屋に入って行った。急に賑やかになった部屋にさっきまでの緊張感は消えてなくなった。
「猪熊さん。今日はありがとう。私はあなたのことを羨ましく思っていたの。才能に恵まれたあなたが私の家族を変えていくことを羨ましく思ってそして嫉妬した。自分には何の力もないし、何のとりえもないから。ただ、日々を平和に過ごしていくことしか出来なくて、二人は毎日楽しそうだし私ばかりが取り残されていくようで……」
「そんなことはないぞ」
寝ているはずの羽衣の声がした。
「あなた起きてたの?」
「ついさっきな。うちを牽引しているは母さんだ。母さんがいないと私も勝男も安心して出て行けない。母さんが家にいるから安心して帰って来れる。母さんは私たちを楽しそうに見えたのならそれを作っているのは母さん自身だ。どこにも取り残されてなんかいない」
「そんなこと、言われたの初めてよ」
「そりゃ、口に出したことなんてないさ。酔ってるからな、今晩は」
羽衣と妻は見つめ合って微笑んだ。
「父さん起きてたの。ねえ、猪熊さんにサイン貰うけどいいでしょ」
「ああ、猪熊くんがいいのなら。でも、学校で自慢したりするなよ。サイン頼まれても父さんからは頼まんからな」
「なんでだよ。ケチ」
「あの、サインくらいなら別にいいんですけど」
遠慮がちにいうと、羽衣は急に上司の顔つきになった。
「ダメだ、ダメだ。一度引き受けると自分も自分もって皆頼みたがる。自分だけじゃなくて、親戚や友達の分まで書く羽目になるぞ。会社からもそう言うことは厳しく言われているから守らないと、クビが飛ぶ」
「そうなんですね。じゃあ、息子さんの分だけで」
「ま、しょうがないか。じゃ、お願いします」
出してきたのはノート。新しいもののようだが逆に書いていいのか躊躇う。
「勝男! あんたそんなものに書いてもらおうなんて失礼よ」
「猪熊くんすまない。今度、色紙渡すからこっそり書いてくれんか」
「ええ、構いませんよ。マイホームへの新築祝いも一緒にお持ちします」
「気づいていたの?」
「そうじゃないかと思ってました。夢が叶いましたね」
「大変なのはこれからだけど、何だかやっていけそうな気がするわ。ねえ、あなた」
「あ、ああ……」
相変わらず覇気のない声で羽衣は答える。頑張る活力にはなるが、重責になるのは御免だ。もっともっと頑張らないと妻の夢を奪うことになる。
「じゃあ、あたしはそろそろお暇します」
柔がそう言うと、妻は慌ててタクシーに電話して来てもらった。時刻は午後十時半過ぎ。最近は滋悟郎の監視がゆるくなったとはいえ、家に帰ったらかなり遅い時間になりそうだ。タクシーに乗る柔はどうにかこっそり帰れないものかと考えながら、ため息を吐いた。
「今日も疲れた」
窓から見える景色は随分暗く感じたが、空には星が一つ輝いているだけの寂しい空だった。