花園が帰ってくると、5歳になった富薫子が柔道着のまま走ってきた。
「柔お姉ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、フクちゃん大きくなったわね」
「うん! 5歳になったの。プレゼントありがとう。すごく嬉しかった」
誕生日の10月10日には毎年何らかのプレゼントを贈っている。最近はアニメのおもちゃが欲しいようで久しぶりにおもちゃ屋さんに行ったりした。
「着替えてからお話ししなさい」
「はーい」
富士子と富薫子が部屋を出ていくと、入れ替わる様に店の方から富士子の母親が顔を出した。
「あ、お邪魔してます」
「猪熊さん、金メダルおめでとう。テレビで興奮しながら見てましたよ」
「ありがとうございます」
「今日は宿をとってるんだって?」
「ええ、温泉にでも入ってゆっくりしようかと」
「たまにはいいよね。五輪の後、ずっと忙しそうだし」
「おかげさまで」
「薫くんが送ってくれるんでしょう?」
「そうっス」
「そんな、いいのよ。タクシー使っていくから」
「遠慮はいらんぞ」
「そうそう、遠慮するような仲じゃないでしょ。あ、お店に戻るわね。ゆっくりしていってね」
富薫子が戻ってきて、士郎にもあいさつしてほっぺをプニプニしてにこっと笑うのを見ると、安心したのか柔の方へやってきた。
「オリンピック見たよ。すごいね。お姉ちゃん小さいのに大きな人を投げて。パパのことも投げたって本当?」
柔は花園の方を見た。そんなこと言ったの? と言わんばかりの形相だ。
「あたしはね嘘だと思うの。だってパパ大きいもの。さすがにお姉ちゃんも無理でしょ」
「そんなことないわよ~。猪熊さん、本当の事教えてあげて。じゃないといつまでも嘘つき呼ばわりなのよ」
富士子が入ってきた。
「フクちゃんが産まれる前のことだけどね」
「ホント! すごい! あ、もしかしてパパ弱かったの?」
「ああ、あの時はとっても弱くてお姉ちゃんや滋悟郎先生に強くしてもらった」
「そうよね。今のパパとっても強いもの」
誇らしげな顔の富薫子は見ていて微笑ましい。
「フクちゃん、ママも強いのよ」
柔がそう言うと、目を輝かせた。
「知ってるよ。少しだけ覚えてるから。ママが試合してるの見たことあるの」
「じゃあ、ずっと覚えていてね。ママが強かったこと」
「うん!!」
それから1時間後、柔と花園が車に乗り込んだ時富士子の父親が窓を叩いた。
「間に合ってよかった。荷物になるけど、お茶持って行って。今年一番の出来のやつ。うちの金メダルだから」
「ありがとうございます。伊東さんのお茶、おいしいので嬉しいです」
「またいつでもおいで。おいしいお茶淹れてあげるよ」
車は走り出す。旅館まで30分ほどの道を走っていると、ラジオから懐かしい歌が聞こえてきた。
「この曲、錦森先輩よね」
「懐かしいな。あの人、一時期全然見なかったのに、また最近見るようになったよな」
「あたし、雑誌で対談したことあるわよ。高校生の時、ファンだったし」
「人気あったなあの頃は。今は、武蔵野高校の卒業生で一番の有名人は猪熊だけどな」
「そんなことないわよ。ねえ、武蔵山高校の柔道部のみんなとは連絡とってる?」
「おお、頻繁にはとってないけど年賀状は出してるぞ」
「みんなどうしてるかな」
「畑山は自動車ディーラーで河野は商社に、富岡は家の酒屋を継いで安井は不動産屋で頑張ってるよ」
「それぞれ頑張ってるのね。須藤くんは?」
「須藤は高校卒業してからずっと寿司屋で修行してる」
「えー意外だわ。お寿司屋さんなんてとても大変なところじゃない。須藤くんって短気なところあるから大丈夫かしら」
「あいつなりに頑張ってるんだろうな。いつか行ってやってくれよ。喜ぶと思うぞ」
「ええ。お店の名前と場所を教えてくれる?」
花園が教えてくれた店名と住所をメモ帳に書いた。赤髪リーゼントのヤンキーだった須藤が柔道部に入って更生し、今は寿司職人。何だか信じられない気持ちだ。
旅館に到着すると玄関先まで車で乗り付け降りた。花園にお礼を言うと仲居が出迎えに来てチェックインした。もちろん名前を事前に言っていたので柔が来ることは知られていたが、大騒ぎをするでもなく普通の客と変わらぬ対応をしてくれた。
「先ほどお車を運転していたのは、花園先生でしょうか?」
部屋でお茶を淹れながら仲居が尋ねた。
「そうです。ご存じですか?」
「息子の部活の先生だったんです。花園先生になってから随分熱心に部活に取り組むようになって去年、中学の柔道大会の静岡代表になったんですよ」
「それはすごいですね」
「結果は、一回戦敗退でしたが子供たちはとてもいい顔をしていました」
「今は高校生ですか?」
「ええ、おかげさまで柔道で推薦を受けて入学しまして毎日頑張っているみたいです」
お茶を出すと部屋を出て行った。食事は午後7時。それまでは予定もないのでゆっくりできる。温泉に入って疲れを取るとぼんやりとテレビを眺めていた。誰の目も気にせず、誰とも話さず、一人の時間を過ごすことがとても癒しとなる。それだけ目まぐるしく過ぎたこの一年。
「なんだか申し訳ないな」
耕作のことを考えると、自分だけ温泉に行ってることが申し訳なく思う。でも、耕作なら「ゆっくりしておいで」と言ってくれるだろう。
海が近い伊東市では海の幸の料理が沢山出てきた。お刺身に天ぷら、煮つけはどれも絶品であっという間になくなってしまった。妊娠の可能性があったのでお酒は飲まずにいたので、食後にもう一回温泉に入って体を温めた後眠りについた。
温泉旅館で体を温め、心を癒した柔は午前中にチェックアウトをして東京に戻った。よく眠れたお陰で、電車では風景を楽しむ余裕さえ生まれた。
東京に戻ってくると、少しだけ変装をして電車に乗ってとある場所へ向かう。数年前に行ったことがある場所。あの時はまさか自分がここに事になるとは思いもよらなかった。
『植田産婦人科』は富士子が最初に行った産婦人科だ。その時は柔も同行していた。
診療時間終了間際のため、あまり人はいない。初診のため書類を記入すると、受付が少し慌てているのが見えた。柔は「どうか大騒ぎしないで」と祈っていた。
最後の患者が出ていくと柔は名前を呼ばれて診察室に入る。優しそうな女医が丁寧に話を聞き、検査をした。
「おめでとうございます。妊娠4ヶ月です」
医師のその言葉に柔は言葉が出ない。嬉しくて涙で瞳が潤む。
「それからもう一つ」
「もう一つって?」
「双子を妊娠されています」
想像もしていなかった。喜びも不安も2倍になった気がした。
「母子手帳、もらってきてくださいね」
「はい!」
◇…*…★…*…◇
NY深夜。耕作は夢の中にいた。五輪が終わっても忙しい日が続く。アメリカは一年中、スポーツで賑わっている。それを追いかけて取材して文章にする。とても疲れるがやりがいがある仕事だ。
だからへとへとになってベッドに入ればすぐに眠りにつく。でも今日は眠りが浅い。
夢にはアトランタ五輪女子柔道無差別級決勝戦の様子がありありと蘇り、授賞式の様子までもが見えていた。柔は満面の笑顔を世界に見せていた。それが耕作はとても誇らしく感じていた。
その夜のことは久々に妻として柔に触れられたことは至福の時間だった。でも、夢のような時間は本当に夢だったのか、現実だったのか未だにわからないでいた。
電話のベルが鳴る。ベッドから起き上がって受話器を取る。
「ハロー……」
「耕作さん!」
寝起きの突然の大声にいささか心臓が止まりそうになる。
「ど……どうしたんだい?」
「ごめんなさい。そっちは夜中よね。でも、どうしても報告したくて」
「どうしたの?」
「あのね……あたし、子供ができたの」
「ふーん……ん? なんだって?」
「耕作さんとの子供ができたの。病院にも行って確認してきたわ」
「本当かい?」
「本当よ。間違いないわ」
「や……やったー!!」
信じられないという思いがありながらも、心当たりがないわけでもないので耕作は純粋に喜んだ。
「喜んでくれるの?」
「当たり前だろう。喜ばない理由なんてどこにもないじゃないか」
「だって柔道できなくなるわ」
「そりゃ記者としては残念だけど、俺は柔さんの夫だから子供ができてうれしいに決まってる。柔道に関しては休むか引退か考えなきゃいけないな。柔さんはどうしたいと思ってるの?」
「あたしはまだそこまで考えてなくて。だってね、赤ちゃん双子なのよ」
「双子! そりゃ大変だ。出産予定日は?」
「4月18日よ」
「そうかー俺も父親になるんだな」
34歳の耕作は、年齢的にはいい頃だ。
「公表の時期とかどうしようか?」
「そのことなんだけど、ちょっと相談したくて……」
「なにか考えがあるんだね」
「うん、でもそれはまた今度にするわ。耕作さん、疲れてるでしょ」
「何言ってんだよ。目が覚めたよ。うちの親にも言っておきたいし、とりあえず聞かせてよ」
「あのね……」