東京もクリスマスを過ぎると、少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。街中のクリスマスソングは消え去り、イルミネーションだけが夜を彩る。
「クリスマスに来れなくてごめんな」
「でも、一生懸命仕事終わらせて来てくれたんでしょ」
「まあな」
「それだけで、嬉しいわ」
耕作の腕をぎゅっと抱きしめる柔。東京の街中でこんなに密着したことがないから、なんだかそわそわする。
「挨拶もそこそこで出てきちゃったけどよかったのか?」
「いいの。どうせおじいちゃん耕作さん捕まえてお酒飲む気だったから、あのままいたら家を出れなかったわ」
「そうか、明日付き合えばいいか」
「ほどほどにしてね」
「ところで、行きたい店ってどこなんだ?」
「確かこの辺に……」
近くまではタクシーで来たのだが、渋滞にはまったので降りて歩いている。凍えるような寒さだが、二人は寄り添って歩いた。
「あ、ここよ。『浜寿司』って書いてある」
「寿司屋? いつものところじゃないよな」
「あそこは近所のおじいちゃん行きつけだからね。ここはね、懐かしい人がいるところなのよ」
店の引き戸をガラガラと音を立てて開く。暖かい空気が流れてきて、店内から威勢のいい声がした。
「いらっしゃいませ!」
数席のカウンターとテーブル席が三つの小さな店だ。カウンターの中の店員は60代くらいのふくよかな男性で、その横にもう一人30代くらいの男性がいた。
「あの、予約してた松田ですけど」
柔がそう言うと、耕作は首をかしげた。
「お待ちしてました。こちらへどうぞ」
コートを脱いで鴨居掛けのハンガーにかけると、二人はカウンター席に座る。客はいたが満席というわけではなかった。
「おまかせでよかったでしょうか?」
大将と思われるふくよかな男性が笑顔でそう言った。柔も耕作もこういう店に来慣れていないので緊張した様子で「はい」とだけ言った。
耕作にはビールを注文してすぐに突き出しも出てきた。そしていいタイミングで寿司が出てきた頃、耕作は柔に訊いた。
「懐かしい人って誰なんだい?」
柔も店内を見まわしたがそれらしき人がいないので、今日は休みだったのかもしれないと思った。こんなことなら「猪熊」で予約しておけばよかったと。でも一応店の人に訊いてみた。
「あの、すみません。こちらに須藤って人がいると聞いたんですけど」
30代くらいの店員に訊いたら、そばにいた大将も振り返った。
「ええ、いますよ」
「今日はお休みですか?」
「いえ、今日は裏の方で仕事してるんです」
「そうなんですね。普段もお店の方には出られないんですか?」
「そんなことはありませんよ。今日は、人手が足らなくて裏に行ってもらってて、普段は店に出ています。お知り合いですか?」
「ええ」
「呼んできましょうか?」
「お願いします」
「懐かしい人って須藤か。彼、ここで修行してたのか」
「花園くんが教えてくれたの。それで様子見てみようと思って」
裏の方で何か話声が聞こえて、戻ってきた店員の後ろに昔と印象がまるで違う須藤がいた。
「須藤くん……?」
「あ、久しぶりス。柔ちゃんと松田さん」
「なんか雰囲気変わったわね」
柔の記憶の須藤は赤い髪のリーゼントで生意気でスケベで明るいヤンキーだった。柔道部に入って更生した時は本当に嬉しかった。そんな彼が今では黒髪で角刈りのいかにも職人という風体になっていた。
「そっちこそ、結婚なんかしちゃって。ズルいスよ、松田さん」
「いや、そんなこと言われても」
「それに来るなら言ってくれればよかったのに」
「驚かせようと思って。ごめん、迷惑だった?」
「そんなことないスよ」
笑顔でいるがどこか寂しそうにも見える。
「須藤、お前に任せてもいいか?」
大将がそう言うと、須藤の顔が明るくなる。
「いいスか?」
「ああ、知り合いなんだろう。お前がしっかりやってるところ、見せてやれ」
「はい!」
須藤は以前のような明るい表情で寿司を握り始めた。
「松田さんは、今もアメリカなんスか?」
「そうだよ。さっき帰ってきた。だから本当に、寿司ってうまいなって思うよ。向こうじゃ食べれないからね」
「ハンバーガーばっかりスか?」
「まあね。とにかくさっぱりしたものが少ないんだよ。毎日肉とか無理だろう」
「自炊、したらいいのよ」
柔の突っ込みに耕作は諦め顔をする。
「できれば苦労しないよ」
「柔ちゃんがアメリカ行けばいいんじゃないスか?」
「簡単に言うなよ。わかるだろう」
「そうスけど。寂しくないスか。結婚しても離れ離れなんて」
「そんなこと考えてくれるようになったの。大人になったわね」
「まあ、それなりに」
「須藤くんは、いい人はいないの?」
「俺は柔ちゃん一筋だったんで、そんな人いないスよ」
はにかむ須藤に横やりが入る。
「嘘言うなよ。彼女いるだろう」
「何で知ってるんスか。マサオ兄さん」
「みんな知ってるよ」
大将もニヤッと笑っていた。
「いるんじゃない。結婚しないの?」
「まだ修行中なんでそんなの無理スよ」
「厳しい世界なのね」
「柔ちゃんも柔道小さい時からやってて今があるわけじゃないスか。本読みましたよ」
その言葉に反応したのは耕作だった。
「お! ありがとう。サインでもしようか?」
「いいス。柔ちゃんの方が欲しいス」
「あ、そう」
「あたしの場合は、強制的にやらされたみたいなものだから。自分で決めて進んだわけじゃないのよ。だから自分でお寿司屋さんに修行に入って頑張ってるのは本当に偉いわ」
耕作もうなずいている。
「柔道部の他のみんなとは会ってるの?」
「いや、全然会ってないス。柔ちゃんは?」
「あたしも全然。花園くんにはこの前会ったけど」
「静岡に引っ越したって聞いたスけど」
「そうなの。向こうで学校の先生してるわ」
「それっぽいスね。あ、ちょっといいスか」
須藤がそう言って裏の方へ行ってしまう。
「あいつ、最近元気なかったんですよ」
マスオがそう言うと、ちらっと裏の方を見た。
「寿司職人って修行期間長くて俺もまだ修行中なんですよ。そう思うと、彼女との将来とかを不安に思うのかもしれないですね」
「それであんな感じだったんですね」
「お待たせしましたス」
おいしい寿司はこの後も堪能しいよいよ帰る時間となった。
「ご馳走様。とてもおいしかったわ」
「頑張れよ。努力すれば必ず報われるものだよ」
「ありがとうございます」
店を出るとまた大通りまで歩きだす。寒さは増していたが体は暖かい。
歩道を走ってくる人がいる。暗い道で柔にぶつかったら危ないので手を繋いで、隅に寄った。しかしその人影は次第に増えて気味悪さも感じた。
数人の足音が目の前で止まった。ちょうど街灯の下で彼らは息を切らせていた。
「間に……あった」
「猪熊せん……ぱい」
「もしかして、柔道部のみんな?」
「はい。須藤から連絡もらって来たんです」
「須藤くんが……」
粋な心遣いに柔はますます須藤の成長を感じた。
「花園と富士子さんの結婚式以来だから5年ぶりくらいか」
「そうです。あの時、松田さんに結婚はしないんすかって聞いたのに、答えてくれなかったのってこういう事だったんですね」
河野が柔の方を見る。
「いや、あの頃は何にもなかったよ。それにしてもよくみんな来れたな」
「みんなで忘年会した後に、俺の家で飲みなおしてたんですよ。この近くなんで須藤に連絡もらって走って来ました」
安井がピースサインしながら言うと、柔は笑顔になる。
「ありがとう。嬉しいわ」
武蔵山高校で弱小柔道部と一緒に柔道したことが柔にとって、柔道を楽しいと思えた最初の記憶かもしれない。幼い頃は遊び感覚でやっていたが、父が失踪してからは滋悟郎の言われるがまま柔道をしていた。。楽しいとか楽しくないじゃない。ただ、日課としてやっていただけなのだ。
「花園くんから聞いたわ。みんな頑張ってるって」
「でも、柔道はやめてしまいました」
畑山が申し訳なさそうに言った。
「そんなの気にしないでよ。みんなそれぞれ人生があるんだから。ただ、柔道をやってたことは忘れないでくれたら嬉しいわ」
「もちろんです。一生の宝物です」
まだ息が切れている太めの富岡は持っていた手提げを差し出す。
「これうちから持ってきた酒です。もしよかったら正月に飲んでください」
「いいの? これからみんなで飲むんじゃないの?」
「いいんですよ。結婚お祝いです」
「ありがとう。富岡くんの家って酒屋だったのね」
「そうなんです。何かご入用の時はぜひ」
「お前ここで商売するなよ」
「たまたまだよ。でも、会えてよかったです」
泣きそうになる男4人。それに柔はうろたえる。
「実家にいるんだから会いにいつでも来てくれたらよかったのに」
「迷惑かなって思って」
「そんなことないわ」
白く息が立ち上る。妊婦の柔にここの寒さは堪える。
「柔ちゃん!」
須藤の声がした。息を切らせて走ってきた。
「ありがとう、柔ちゃん。俺、柔ちゃんに会えて本当によかった。俺、修行辛くてやめようと思ってた時に、バルセロナの無差別級見て勇気もらったんだ。柔ちゃんも頑張ってるんだから俺もまだ頑張れるって」
「俺もそうさ。不景気の就職難で将来に絶望してたけど、猪熊先輩の試合見て頑張ろうって思ったんだ」
「僕もそうです。夢とか希望とか諦めないといけないのかなって思ってたんですけど、諦めちゃいけないんだって思ったんです。試合見て感じました」
安井と河野が目を潤ませながら言った。
「僕もさ、家業継いで楽そうってよく言われるんですけど、親から継いだものを存続して繋げていくって結構きつくて。できて当たり前みたいな感じがプレッシャーになるんですよ。猪熊先輩もきっと辛かったんだろうなって思います」
「それに先輩は仕事までしてたじゃないですか。俺なんか、仕事がうまくいかなくて悔しくて思い出したんです。柔道部でのこと。俺たちは弱小で諦めてたから負けたんだって。でも、先輩に教えてもらって諦めずに稽古を重ねたから勝てたんだって。だから俺、諦めずに仕事、頑張ろうって思えたんです」
富岡と畑山はもう号泣してた。見ると他の3人も号泣してた。
「みんな、いろいろあったのね」
「乗り越えられたのは、猪熊先輩と花園さんに鍛えてもらったからです」
「花園くんも喜ぶわ」
柔も泣けてきた。
「あたしもみんながいたから柔道を楽しいって思えたの。それまでは全然楽しくなかったし、むしろ嫌だったわ。でも、みんなで稽古して試合に勝っていくことが本当に嬉しかった。あたしの方こそ、力を貰ったわ。ありがとう」
彼らとの出会いから柔の柔道家との人生が始まった。いがぐり頭の高校生だった彼らはすっかり大人になって、もう10年も前のことを覚えていてくれるだけじゃなく力になったと言ってくれる。柔は本当に嬉しくて、幸せで涙が止まらない。
「松田さん」
「なんだい?」
「俺たち松田さんにも感謝してて……」
「俺に? なんで?」
「先輩を見つけてくれたし、俺たちの試合の時も協力してくれたじゃないですか。アドバイス入りのカセットテープ。あの後、みんなでダビングして今でも持ってるんですよ」
「そんなことしてたのか」
「それに、毎朝の新聞は本当に元気を貰うんです。松田さんの記事を読んで僕たち仕事始めるんです。先輩の記事じゃなくても、松田さんの書く記事には勢いとエネルギーがあって、助かってます!」
「ありがとう。まさか俺にまでそんなこと言ってくれるなんて思ってなかったよ」
「松田さんって自己評価低そうですよね」
「うるせーよ。これでも必死なんだ」
その場のみんなが笑う。
「じゃあ、そろそろ行こうか。冷えてきた」
「ええ、走ってきてくれてありがとう。富田くん、畑山くん、河野くん、安井くん、須藤くん。またいつか花園くんも交えてお話ししようね」
二人は大通りに出てタクシーを拾う。5人は見送って少し寂しくなる。
「須藤、ありがとな」
「俺だけ会ったら恨まれると思って」
「そうだな。ってお前店はいいのか?」
「いけね。戻りまス」
走って戻って行く背中を見ていると、安井がポツリと言った。
「案外、ちゃんとやってるみたいだな」
「俺たちも、愚痴ばっかり言ってないで頑張りますか~」
「おおー!」