年が明けて1997年になった。柔は年末年始にも沢山のテレビの仕事のオファーがあったが、すべて断っていた。そのことで様々な憶測がなされたが、一番多かったのが「引退」と「活動休止」の二つだ。そのことでも電話や家の前で取材を受けることがあったが、すべて沈黙を貫いていた。
1月3日になると、花園家族が年始の挨拶にやってきた。耕作は予行練習と言わんばかりに士郎を抱っこしていた。
「慣れたもんっスね」
花園の膝の上には富薫子が座っていた。まだ慣れないようでおとなしくしている。
「フクちゃんの時に結構抱っこしたからな。でもまだなんか小さくて怖いや。子育てに関しては花園の方が先輩だからな、なんか不思議だ」
「なんでも聞いてください。お風呂もおしめも食事も遊びも何でもしましたよ。お腹が大きい時は掃除、洗濯、買い物、ごみ捨てなんて当たり前っス」
耕作は言葉がない。苦手なことばかりだ。
「いいのよ、耕作さんにそんなことしてもらおうとは思ってないわ」
「いや、しかし……」
「そもそもできないでしょ」
「そんなことは……」
頼りない耕作に富士子は思わず言ってしまう。
「そんなんで大丈夫なの? 猪熊さんもNYに行って」
「な、なんとかなるわ」
柔は温泉旅館でもし妊娠していたらどうしようかずっと考えていた。このまま日本で出産したらきっと玉緒がいてサポートしてくれるから楽だと思う。でも、耕作とは離れ離れになる。赤ちゃんが生まれてからの飛行機はきっと何ヶ月も無理だし、耕作だってそんな頻繁には日本に帰って来れない。そうなると早めに渡米して向こうで出産準備をして出産した方がいい。アメリカでの出産だと、金銭面もそうだがサポート体制や普段の生活に困りそうだと思った。でも、家族が離れ離れになるのは避けたかったのだ。
柔の切実な思いを聞いた耕作は、考えてみると電話を切って。その一週間後に時期や病院、サポート体制などの提案をして話し合いの結果、年明けには二人で渡米して準備をして、出産予定日が近くなったら玉緒に来てもらうということになった。
「お母さんには苦労かけちゃうけど、日本で産むといろいろうるさいかもしれないから」
「苦労だなんて思わないわ。だって初孫だもの。楽しみで仕方ないわ。アメリカには虎滋郎さんもいるし、楽しみなくらい」
「まだアメリカでコーチを?」
「そうなのよ。アリシアさんを鍛えてるみたいよ。孫が産まれたらいきなり鍛え始めそうで怖いわね」
「無理強いは嫌だけど、環境さえ整っていればさせてみるのもいいかもしれないわね」
「なーにをのんきなことを言ってるんぢゃ。お前の時と同じように、鍛えるに決まっておろう」
「決まってなんでいません」
「せっかく双子が生まれるんぢゃ。お互いに稽古もできる、環境は整ったではないか。のう、松ちゃん、おぬしは賛成ぢゃろう?」
耕作は士郎を抱きながら、あいまいな笑顔をしていた。
「いや、俺は柔道のことはわかりませんから」
「わからんわけなかろう。おぬしもすっかり柔の尻に敷かれておるようぢゃのう」
「そんなことないもん! おじいちゃんはデリカシーがないのよ。あたしたちの子供なんだからあたしたちが決めるわ」
「おー好きにせい」
「そうします!」
滋悟郎は出て行ってしまった。柔がNYで仕事をしていた時は一緒に渡米したが、暮らしと食があまり合わなかったようで、柔が柔道の稽古をしない内はNYには行かないと言い張ったのだ。だから玉緒がギリギリまで日本にいることになったのだ。滋悟郎も手がかかるから。
「おじいちゃんも寂しいのよ。柔がNYへ行ったら道場で一人でしょ。だから未来をちょっと夢見ちゃったのよ」
「わかるけど。ここで甘やかすと、してやったり見たいな顔するじゃない」
「それもそうね。柔道するにしてもまだまだ先の話よ。まずは出産に備えなきゃ」
「そうよ猪熊さん。万全の体制を整えなくちゃ。それでいつ、NYへ行くの?」
「明後日の夜には空の上よ」
「でも大丈夫なの? 飛行機に乗っても」
「まあ、大丈夫じゃないかなって。別に制限があるわけじゃないし、先生にも相談したし。それに今回はちょっとラッキーだったから」
「どういうこと?」
「レオナルド社長がちょうど来日してて、ついでに帰りに乗せてくれるっていうのよ」
「自家用ジェットに?」
「うん!」
「それなら安心ね。ゆとりもありそうだし」
荷物も運ばせてもらえるということで、耕作のバイクをいよいよアメリカに持っていくことになった。鴨田に預けていたから不安はあったが、久しぶりにキーを回すと無事にエンジンはかかった。
「荷造りはもうしたの?」
「前にちょっとはNYに運んでたからさほどないのよ。本当に必要な物だけもっていかないと、部屋がパンクしちゃうもの」
「そうよね、あたしも大変だもの」
「富士子さんも?」
「実はね、花園くんが名古屋の私立中から柔道のコーチ兼教員になることが決まってね」
「すごいじゃない!」
「そうなのよ。悩んでたんだけど猪熊さんもNYに行くっていうし、あたしたちも新しいところで頑張ってみようかって話し合って決めたの」
花園は大学時代の正直杯の成績や教員後の弱小柔道部の再建など評価されたために引き抜きされたようだ。今の学校の生徒を置いて行くことに随分悩んだようだが、公立の学校にいてもいずれは転勤があるわけなのでそこは割り切るしかないと腹をくくったようだ。
「じゃあ、静岡の生徒さんとはお別れになっちゃうのね」
「ええ。でも、公立の教師って数年で転勤もあり得るし、だったら同じ学校にずっといられる私立の方がいいかもしれないって思ったのよ」
「それもそうかもね。でも、名古屋って遠いよ」
「それを言うならNYのほうがずっと遠いわ」
「海の向こうだものね」
遠くを見つめる柔。富士子とは沢山思い出がある。変わった人と思ったこともあったけど、優しくて情に厚くて柔をいつも励ましてくれた。
「大丈夫よ、猪熊さん」
「え?」
「子供が産まれたら淋しさなんて感じる暇なんてないもの。その子の未来を考えるだけでウキウキしちゃう。それが二人分でしょ。きっと毎日大変よ」
「そうよね……」
「大変だから、頼るのよ。一人で抱え込んではダメよ。あなたの周りには助けてくれる人が沢山いるからきっと大丈夫」
「富士子さん……」
「あたしももちろん力になるわ」
「頼りにしてるわ。先輩ママ」
「まかせなさい」