「ねえ、これ覚えてる?」
耕作は見ていた写真をとっさに隠してしまう。
「ん? なに?」
「これよ」
白いフリルの付いたブラウスと赤いロングスカートを見せた。
「ああーもちろん。葉山で買った服だろう?」
「耕作さんが柔道着のままバイクで連れ去るから、あたし恥ずかしくてわがまま言って買ってもらったのよね」
「そうだったなー」
給料日前の苦しい時期だったが、無理矢理連れ出したしとても似合っていたのでプレゼントした。
「あの時はさやかが死に物狂いでトレーニングしているのを見て、柔さんにも本気になって欲しかったんだけどなんか悲しませちゃったよな」
「……わかってたの?」
「あの後な。俺の言うことも聞こえてなくて無言でバスに乗って帰っただろう。それで気付いた」
柔は俯く。あの時は風祭に淡い恋心を抱いていた。大人で紳士で優しい人。理想の男性だった。そんな人がさやかと二人きり、夕日の浜辺でトレーニングをしていた。二人とも柔道着でさやかは鉄下駄に腰にロープで大型タイヤまで付けていたのに、まるで絵画のように美しく入り込む隙間もないほど完璧に見えた。
「今更隠しても仕方ないから言うけど、あの後風祭さんにデートに誘われて言われたの『柔道をやってる君は美しい』って。それでね、全日本に出ようって思ったの」
「俺に言われても全然出る気なかったもんな」
「だってそれはあたしのことを見てなかったから……」
「確かに、俺は柔さんを柔道家として見ていた。一人の取材対象として日本スポーツ界の救世主だと思って追いかけてた」
「わかってたわ」
「この時まではな」
「え?」
「葉山で君が風祭に気があることを知ったよ。それから俺は無自覚だけど君を女の子として見るようになったんだと思う。でも、高校生だし俺の個人的な感情は邪魔になると思ったから気づかないふりというか、意識しないようにしていたんだ」
「そうだったの……」
風祭に柔を説得するように頼んだのは耕作だ。二人のデート現場を見て心がざわついた。風祭がキスしそうになった時には思わず飛び出していた。寸前で柔が風祭から離れたからよかったが、あのままキスしている現場を見たらどうなっていただろうか。
「風祭さんにああ言われても何だか信用できなかったんだけど、お母さんがね柔道をしているお父さんは輝いていたって言っててあたしは確かめたくなったの。本当にそうなのかなって」
柔道をやってる自分を客観的に見たこともなければ、考え方もいつも悪い方だった。格闘技なんてやってるなんて知られたくないし、可愛くないと。でも、もし本当に輝いているのなら悪くないと思った。
「それで結果はどうだったの?」
柔はにこっと笑う。
「そんなことすっかり忘れてたの」
「え?」
「だってあの時は柔道部の試合のことで頭がいっぱいで、自分の事なんかどうでもよかったの。ブレーキの利かないバイクに乗せされたり、花園くんがピンチだったりして」
「そっか……」
「でもね、随分後であの時の答えがわかったの」
柔は山積みになったスクラップブックから1冊取るとページをめくった。
「これって……」
「そう、あの日の翌日の記事。日刊エヴリーだけがあたしの涙の写真だった。これはあたしが試合に勝って流した涙じゃないけど、みんなで柔道を頑張って勝利して出てきた涙。柔道が繋いだ絆みたいなものかなって思ったの。耕作さんにはあの時のあたし、どう見えた?」
「とても綺麗だったよ。君自身が柔道をしている時よりも、優しい表情で柔道にも前向きだった。だから思わず写真を撮ったんだ」
「それが答えなのよ。耕作さんの記事やこの写真にはあたしへの思いが溢れてる。輝いてるかどうかはわからないけど、あたしを見てくれる人は確かにいてその人はあたしにとってとても大切な人だって気づいたの」
耕作は照れ臭そうにしているが、その思いを受け取ってくれたのならこれほど嬉しいことはない。
「そのことにに気づいたのが91年のクリスマス」
「91年ってバルセロナ五輪の前年……あ!」
「そうなの。前に言ってたでしょ。なんで柔道復帰したのか、わからないって」
「ああ、全然わからなかった。喫茶店に来てくれって言った時も、聞く耳持たずって雰囲気でダメもとで行ったようなものだし」
「あの時ね、お父さんはさやかさんのコーチをしているショックもあったけど、耕作さんが記者を辞めるって聞いて胸がモヤモヤしていたの。そんなのあたしには関係ないことって割り切って風祭さんとデートの約束してたんだけど、部屋を出るときおじいちゃんが置いたあのスクラップの山にぶつかって崩れたの」
ページの隙間からはみ出た切り抜きの記事の最後には(松田耕作)と書かれていた。見るつもりはなかった。でも、思わず手に取った。
「あの時、初めてしっかり自分の記事を読んだわ」
「初めてだって!」
「恥ずかしいじゃない。自分の事を書いてる記事を読むなんて。でもね、全く読んだことないわけじゃないのよ。羽衣課長が絶賛してたからそれからは、読むこともあったんだけどやっぱりあんまり読んでなかったわ」
「そういうもんか」
「それでね、最初に記事になったときからデビュー戦、全日本ってずっと耕作さんの記事を読んだわ。時間も忘れて読んでた。そしたら聞こえてきたの」
「何が?」
「歓声よ。記事から試合の時の歓声が聞こえたの。あたしのことずっと見ててくれたから、あんな風に書けるんだと思ったの。だから絶対記者を辞めて欲しくなかった。それから……」
柔は言葉が出なかった。あの時に明確に意識した。この人が好きだと。でも、恋人がいるからこの恋は成就しないと思っていた。でも……。
「繋がりを断ちたくなかった。あたしと耕作さんの繋がりは記者と選手というだけだったから。耕作さんが記者を辞めたらあたしの事なんてすぐに忘れてしまうと思ったの」
「だから記者を辞めないでって言ったのか」
邦子が柔に妙なことを吹き込んでいたことは耕作も知っている。きっとこれもそうなのだろうと察しはつく。だがこの事に関しては感謝したいくらいだ。
「迷いはまだあったの。お父さんのことは何も解決してなかったし。でも、だから耕作さんとの繋がりが欲しかったのかもしれない」
耕作の気を引くために柔道を始めたんじゃないかと邦子に言われたことがあった。否定したけど半分は当たってたと思う。貰った手袋の暖かさに救われたけど、胸が痛むこともあった。叶わない想いだと知っていたから。
「そんな風に思ってくれてたなんてあの頃の俺は想像もしてなかっただろうな。俺はさ、柔さんにとってただの記者じゃなくて、うるさくて面倒な奴だと思ってたから。もちろん俺は俺なりに考えていたけど、伝わってる自信は全くなかったし。だからあの日、バスで柔さんが柔道やるって言ってくれた時は本当に嬉しかった。俺にとって最高のクリスマスプレゼントだったよ」
「そのことを言っていたの?」
「ん?」
「バスに向かってずっと叫んでたけど全然聞こえなかったの。何を言ってくれてたのかずっと気になってたんだけど」
「ああ、別に大したことは言ってないよ」
「教えてよ」
そう言って耕作は立ち上がり、柔を向かい合う。思い出せる限り、あの日の言葉を伝えた。途中、むくれるような場面もあったが概ね嬉しそうに聞いていた。
「じゃあ、俺も聞いてもいいかい?」
「取材かしら?」
「そうだよ。とっても重要な質問さ」
柔は姿勢を正した。
「何でも聞いてください」
「ゴホン。では質問します」
「はい」
「俺が骨折して君が食事を作りに来たあの時、俺が『ほんとに泊まっていくか?』って言ったあと。返事に間があったけど何を言うつもりだったのですか?」
あの時の事は邦子が乱入してきて、返事もできずにうやむやになっていた。もしあの時、邦子が来なければ柔はどんな返事をしただろうかと耕作は気になっていた。
柔はすました顔で答える。
「ノーコメントです」
「するいな、何でも聞いてって言っただろう?」
「言いません」
「じゃあ、もう一つ」
「はい」
「柔さん」
名前を呼ばれて振り向くと、耕作が優しい瞳で見つめていた。
「あなたは素敵な恋をして、普通のお嫁さんになっていますか?」
柔は驚いて目を見開く。そして涙で潤んだ。
「覚えて……くれてたの……」
高校生の時に柔が言った理想の将来像だ。耕作は五輪で金メダル獲った後にできると断言した。だから耕作は確認したかった。
「はい。素敵すぎる恋をして、普通の幸せすぎるお嫁さんにさせてもらいました」
柔は涙を流す。覚えていてくれたことも嬉しいけど、描いていた未来よりもはるかに幸せな未来を今歩んでいる。これから出産してどんな未来になるかわからないけど、自分の心に正直にそして一緒に歩む人の気持ちに寄り添いながら、幸せな未来を築いていきたい。
「それならよかった」
出会いは突然で、耕作にとっては一目ぼれに近い状態だった。それは恋愛ではなくヒーローを見つけたときの高揚感。自分だけが知っている彼女を世間にも知って欲しいと、少々強引なこともした。嫌われるようなこともしてきた。それでもいつの間にか、その思いが恋になった。そして今、その想いはもっと大きくなる。
「柔さん……愛してるよ」
「あたしも耕作さんのこと、ずっと愛してます」
口づけ、抱き合う二人の傍らには、空港で抱き合う二人の写真が。あの頃よりも強い想いと強い絆と、確かな未来がそこにはある。
これで本編は終了です。
明日、エピローグで小説は終了です。