東京2020
2020年、夏の東京は例年以上に暑かった。世界各地から人々が訪れ、スポーツの祭典が始まるのを待ち望んでいた。
度重なる苦難を乗り越えて、迎えた東京五輪。午後8時からの開会式はまもなく始まろうとしていた。
「じゃあ、行ってきます!」
慌ただしく玄関を飛び出した彼女は、家族に声をかけると風のごとく駅に向かう。金曜日の夜。ただでさえ人でごった返す電車に揺られて目指す場所は、新国立競技場。
駅を降りたらまた走り出し、小さな体ですり抜けるように中に入った。
「リサ、こっち」
「タクト! 間に合ってよかったー」
ほっと肩を撫でおろす。
「自分から言い出したことなのに、忘れるとかありえないんだけど」
「うるさい! 間に合ったからよかったでしょ」
「お! やっと揃ったな猪熊兄妹」
「あ! 士郎くん。心配してくれたの?」
「そりゃあ、姿が見えなきゃ心配するだろう。間に合うかハラハラしたよ」
「ごめん」
士郎は190cmを超える長身でガタイもいい。対するリサは150cmほどしかなく小さく、大きな瞳の童顔なので並ぶと子供みたいだった。その間を埋めるよなにタクトは170cmの筋肉質な体系とクールな表情が世間では話題になっている。
「士郎はこんなところにいていいのか? 試合は明後日だろう」
「大丈夫だよ。それに日本での五輪だからどうしても出たかったんだ。親もチケット取って見に来てるしな」
「フクちゃんは?」
「姉ちゃんも来てるよ。今度は北京に見に来なさいって言われてる」
「次の冬季五輪は北京か。あたしも行きたいな。フクちゃんのフィギュア大好きだもん」
「じゃあ、みんなで応援に行こう」
「うん!」
スマホで時間を確認したタクト。
「なあ、リサ。家に父さんと母さんいたか?」
「いなかったよ。パパは取材で早くに出たじゃない。ママは知らないけど」
「士郎の親と一緒にいるのかな」
「いや、さっき連絡した時にはそんなこと言ってなかったけどな」
「パパと一緒にいるんじゃないの」
「そうかな……」
タクトは何か思うところがあったが、ここで言うこともないだろうと黙っていた。
「それより、二人は大丈夫なのか?」
「「何が?」」
双子なのでよくハモることがある。
「だって、今大会……」
急に大歓声が響き渡る。何が起こったのかわからないけど、空気の振動が分かるほどの大歓声だ。
「始まったみたいだな」
◇…*…★…*…◇
東京2020開会式が始まった。名だたるアーティストによる演出により、日本の伝統と文化を世界中に見せつけた。その美しさと繊細さ、力強さに世界が感動に酔いしれていることだろう。
パフォーマンスが終わり開催国の国旗の掲揚と国家の斉唱が行われる。先ほどまでの熱を一旦落ち着かせるような、静かで厳かな「君が代」が競技場を包み込む。
その後、オリンピック賛歌の合唱とオリンピック旗の掲揚が行われ、いよいよ選手入場となる。
五輪発祥国ギリシャを先頭に五十音順で行われる。有名アスリートの登場も楽しみだが、各国代表の衣装にも毎回注目が集まっている。かなり時間を要する選手入場だが、各国のファッションなどを見ていると案外時間は過ぎ去っていくものだ。
テレビ中継のアナウンサーはそれぞれの注目選手や見どころも挟みつつ、国の紹介をしている。
「イギリス代表が入ってきました」
「今大会、予想外とも言える選手が代表に選ばれていますね」
「あの二人ですね」
「実力は十分なのですが、まさかイギリス代表で出場とは思いませんでした」
「本阿弥アリスと本阿弥ケントの姉弟は、イギリスで産まれて学生生活のほとんどがイギリスだったこともあり、日本よりもイギリスに愛着があるのでしょうね。二重国籍だったころは日本の大会にも出ていましたが、イギリス国籍にしてからは国際大会のみの出場となりましたが、今回は代表に選ばれましたね」
「ええ。アリス選手は48kg級出場で日本代表の猪熊リサとの戦いが楽しみですし、弟のケント選手は81kg級の出場でメダル有力選手とも言われていますね」
二人の母親は本阿弥さやか。誰もが知る柔道界のスターである。アトランタ五輪48kg級で金メダルを獲った後、引退宣言をして本阿弥グループをまとめる重要な役目を果たしている。
風祭もさやかを支えると共に、実家の風祭酒造が造る日本酒を海外に売り込み話題を呼んだ。その日本酒が逆輸入の形で日本に伝わり、今は品薄状態となっている。
その二人の子供である本阿弥姉弟は日本でも大変人気がある選手だ。その強さはもちろんだが、俳優のような整った顔立ちの姉弟は度々ファッション雑誌やテレビにも出演しファンも多い。
公式インスタグラムには500万人ものフォロワーがいる。アスリート以外でも注目を集める姉弟なのだ。
「カナダ代表の姿が見えましたね」
「注目選手はやはり92年のバルセロナ五輪の女子柔道無差別級決勝で猪熊柔と対戦したジョディ・ロックウェルの娘エマ選手は78kg超級での出場ですが、さすがに明日の試合ということもあって開会式には来ていませんね」
「ええ、日本の岡崎由実子との対戦も楽しみですが彼女も開会式には出ずに、明日に備えてるようですね」
エマは94年に産まれ、両親の愛情と柔道の英才教育を受け成長した。体格はジョディと似ており、重量級だが身のこなしは速くスタミナも多い。前回のリオ五輪では金メダルを獲得している。
一方、岡崎由実子は藤堂由貴の娘であり階級も同じ78kg超級の代表である。同階級では敵なしと言われるほど強く、今回の金メダル有力候補となっている。
そして選手入場は続き、残り3ヶ国となった。
「アメリカの選手団の入場です。アメリカは2028年のロサンゼルス大会開催国ということで、今回は最後から3番目の入場となりましたが、相変わらずすごい人数ですね」
「ええ、注目選手は数多くいるのですがなんと言ってもジェシカ・クラークでしょうね。女子柔道48k級代表で猪熊リサと本阿弥アリスのライバルでもあります」
ジェシカはアリシアの娘だが父親の存在は明らかにされていない。アリシアはアトランタでさやかに敗北してからもトレーニングを重ね、2000年のシドニー五輪で柔と決勝で戦うものの負けてしまう。その翌年、ジェシカを出産し再び五輪に向けトレーニングをはじめアテネで見事金メダルを獲得し引退した。現在は実業家として手腕を振るいつつ、柔道指導にも力を入れている。兄のレオナルドは98年に女優と結婚したが、2年後に離婚。その翌年に知り合ったカフェ店員と現在は再婚しており、二児の父親となった。
「ジェシカ選手の母親のアリシアさんは彗星のごとく柔道界に登場し、その強さと美しさに日本のファンも大勢いましたね」
「日本語もできましたしね。それにあのラスティさんの愛弟子であることも大きく影響しました。ベストセラーになった松田氏の書籍に登場して以来、日本でも彼女は有名になりましたしね」
「ええ、ラスティさんはその上、2008年には旭日小を受章し、2009年には以前はく奪された金メダルを返還されたことでも話題になりましたね」
「そのジェシカ選手の姿が見えました。母親に似て美しいですね。隣には男子66kg級代表のエドワード・デイビス選手の姿も見えます。彼はシドニー五輪、アテネ五輪で金メダルを獲得しグレン・デイビスの息子です。若干17歳での代表入りです」
「猪熊ケント選手のライバルとしても知られています。油断ならない相手です」
アメリカの選手団は一番人数が多い。それだけスポーツが盛んで実力もあるということだ。
「フランスの選手の姿が見えました。フランスは次回2024年パリ大会開催国ということで最後から2番目の入場となりましたが、さすがおしゃれな衣装を着ていますね」
「各国の衣装を見るのも楽しみの一つですからね。そしてここでも注目選手は柔道です。フランスは柔道大国で選手の数も多いです。その中で代表に選ばれるのは至難の業ですが、男子90kg級代表のヴィクトーの強さは脅威とも言えます。花園士郎選手の最大のライバルとも言えるでしょう」
ヴィクトーはかつて柔とも試合をしたマルソーの息子である。マルソーはアトランタ五輪後に引退を表明し、当時交際していた男性と結婚しすぐにヴィクトーを産んでいる。しかし3年後には離婚し、バルセロナ五輪のコーチでもあった元恋人と復縁しヴィクトーに柔道を教え込んだ。マルソーには猪熊柔道の血が入っていたため、ヴィクトーは幼少のころから頭角を現していった。
「さあ、いよいよ日本選手団の入場です」
陸上、水泳、体操などメダル候補の選手が笑顔で歩いてくる中、柔道選手団も姿を見せ始めた。
「花園士郎の姿が見えました。90kg級代表です。母親はバルセロナで銅メダルを獲った花園富士子ですね。花園選手は先の世界選手権では見事優勝をしています」
「その隣には安西ユーリがいますね。彼はロシア代表だったテレシコワを母に持つ81kg級代表ですね。テレシコワはバルセロナ五輪後日本の実業団のコーチとなり日本人男性と結婚したと聞きましたね」
「その息子が五輪に日本代表で出るのは何か面白いですね。あ、二人の横には猪熊兄妹がいますね。紹介は不要だと思いますが、国民栄誉賞を受賞した女子柔道界のレジェンド、猪熊柔の双子の子供ですね。猪熊柔は過去五輪でのメダル総数はソウルを入れると6個となります。アトランタの翌年の妊娠発表では引退もささやかれましたが、出産後のコメントでシドニーを目指すと宣言。そして見事48kg級と無差別級の二階級での金メダルを獲得し、引退を表明しましたね」
「アトランタでは無差別級だけでしたので、シドニーもそうなるだろうと予想されてましたがまさかの二階級出場。そして期待を裏切らない金メダル。彼女は日本中いや、世界中に興奮と感動をもたらしましたね」
「その後、引退を表明し表舞台から姿を消しましたが、テレビでもたびたび放送されますし若い世代も知らない人はいないのではないでしょうかね」
「そんな猪熊の子供たちはアメリカで産まれたということもあり、どの国籍を選ぶかが話題になってましたがやはり日本を選んでくれましたね」
「猪熊兄妹の父親であるスポーツジャーナリストの松田耕作氏は、独立後も選手に信頼される存在となり日米野球の架け橋にもなってくれましたね。特に、野路選手とは長年家族ぐるみの付き合いをしているようです。今では世界中を飛び回り日本以外でもアメリカやオーストラリアなどにも記事を書いているようですね。兄妹が小さい内は一緒に行動していたこともあるようですが、学校に入る年齢になるとLAに数年拠点を構え、高校入学を機に日本に戻ったという事ですよ」
「その間に、柔道の英才教育を受けていたという事でしょうね。二人の祖父の虎滋郎氏や曽祖父の滋悟郎氏ももちろんサポートに入ったことでしょう」
「その滋悟郎氏が熱望し実現した無差別級も、IOCのタマランチ会長の退任により廃止されいまいち盛り上がりに欠ける五輪が続きましたよね」
「ええ、ですが今回東京での五輪開催ということで柔道無差別級の復活が発表されその代表にあの猪熊兄妹が選出されました。もちろんタクト選手は66kg級、リサ選手は48kg級の代表でもありますが、母親の猪熊柔のように兄妹で二階級制覇してくれると期待しますね」
日本での柔道ブームはやはり柔が活躍した時代に最盛期を迎えた。その後も人気はあったが、柔やさやかのようなスターも出ず五輪でもメダルに届かないこともあった。
国際試合でのルール変更に泣かされる日本人選手もいたが、近年はその変化に柔軟に対応できる次世代の選手が育ってきたおかげで強さも人気も取り戻している。
その最たる選手が猪熊兄妹なのだ。「JUDO」と表記されるほど「柔道」とはかけ離れてしまった柔道を再び一本勝ちの武道に戻せる選手だと言われている。
「あれ? 猪熊リサは何か手に持っていますね。なんでしょうか。スマートフォンではなさそうですが」
大歓声が響く中、手を振る選手団。入場のフィナーレは開催国日本。盛り上がりは最大級となる。そんな中、リサは大事そうに抱えるものが放送席で注目されているとも知らず、手を振っていた。
「見てくれてるかな。ひいおじいちゃん」
「見てるに決まってるだろう。予言までしてたんだろう」
リサの手の中には滋悟郎の写真があった。
「そうだよね。ひいおじいちゃんだもんね」
「ああ。しかし、母さんの姿が見えないな。父さんは記者席にいたようだけど」
「そうなの!? よく見えたわね。手を振っておけばよかった」
「大丈夫だよ。ジェシーがいたから」
「そうよね。ジェシーの腕は確かだわ。でも、ママ。どこ行ったのかな」
ようやく選手団の入場が終わると、式辞や開会宣言、オリンピック宣誓などが続いた。
「時刻は午後11時になろうとしています。この新国立競技場は熱気に包まれておりますが、もうじき開会式も終わりです。そろそろ聖火が入ってきてもいい頃だと……」
薄暗い競技場に赤い炎が見えた。トラックを走ってくるその人が最終ランナーかと思われたが、途中で聖火を別の人に渡した。
「あれは!」
「まさか、あれは!」
「猪熊柔だ! 秘密にされていた聖火最終ランナーは猪熊柔だ!」
聖火を持って競技場を走る柔。モニターに映し出されたその顔に、歓声が上がる。日本人で知らない人はいないだろう。世界でもその名は広く知られている。
選手引退後は殆どメディアに出ることはなかったが、柔道は続けていて自分の子供の指導をしていた。時には他の道場に出向いて子供たちに稽古をつけたりして、柔道の面白さを教えたり、安全に行えるような環境整備をしてきた。
「ママ!」
「やっぱり母さんがそうだったんだな」
誰もが納得する人選。五輪前になると必ず特集が組まれるほどの、伝説となった猪熊柔という人物を今、世界中が固唾をのんで見守っている。
柔の動きが止まり、聖火台に火が灯された。小さかった赤い炎は大きな渦になり、夜空を照らした。
「東京2020オリンピックの開幕です!!」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ここでこの物語はおしまいです。
明日の更新はあとがきになりますので、もしよろしければ読んでみてください。
興味ない方はスルーしてください。