東京、神保町。鶴亀トラベル神保町支店では終業時刻となり、次々と社員たちが帰路に着き始めた。柔も例外ではないが、最近では定時に上がっても寄っていく場所ができた。
「Thank you for the lesson」
言い慣れたように柔が言うと、目の前にいた白人男性が返事をする。
「Have a nice weekend」
「You, too」
「See you soon」
「Good bye」
柔は1月から仕事の後に毎週金曜日は英会話のレッスンに通っている。これは会社の社員レベルアップ講座の一つで、希望者だけ受講すればいいのだが柔は望んで英会話レッスンを受けている。
去年、NYに行ったときに自分が習ってきた英語では全く通じない上に、耕作任せになり不甲斐なく感じたからだ。少しでも英語が話せれば仕事でも役に立てるし、もっとコミュニケーションんがとれて世界が広がると感じたからだ。とはいっても、まだ初めて1ヶ月ほど。レッスンも週1回。この45分のレッスンが終るととてつもない疲労が襲う。
「ヤワラ! この後、食事はどうかい?」
廊下を歩いていた時、レッスンを担当してくれるパトリックに声を掛けられた。柔のことを金メダリストだと最初のレッスンの時から知っていたパトリックは、話が聞きたくて食事に誘うのだが柔はあまり夜に外出できないのでお断りをしている。
「つれないな~。じゃあ、別の日はどう? レッスンのない日でもいいよ」
「レッスンがない日は家で稽古がありますから」
やや面倒そうにしていると羽衣がやってきた。
「猪熊くん、駅まで送るよ」
「ありがとうございます」
羽衣も柔と一緒にレッスンを受けている。最初はもう自分に英語は無理だと渋っていたが、少しでも話せれば今度のアトランタ五輪でも添乗員を任されるかもしれない。そう思えば一部会社のお金で通える今の機会を逃す手はない。しかしながら、衰え始めた脳に新しい言語は入らないものでいつも同じことの繰り返しのようなレッスンになっていた。
「ん? 猪熊くん、どうした?」
立ち止まってキョロキョロしている柔。
「あ、いえ。聞き覚えのあるような声が聞こえたんで」
「会社の誰かがレッスン受けてるんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
「猪熊くんは耳がいいね」
「そんなことないですよ」
建物を出ていく二人の背中を見つめる二つの陰。その存在に柔はまだ気づいていない。
「毎回、よい週末をって言われるけど、僕たちは土日仕事だからね」
「そうですよね。不況で休んでいられなくなりましたよね」
「ああ、この業界は厳しいぞ。旅行は娯楽だ」
「そうですよね……でも、この日常から抜け出せるのも旅行ですから。そのお手伝いが出来るように、明日もお仕事頑張りましょう」
「前向きだね」
柔は笑顔だった。悩みもあるが、以前に比べれば小さいことだ。耕作と会えないことはもちろん寂しいが、仕事の応援をすると決めたから我慢できる。新聞で近況がわかるから、平気だ。そう、思い込んでいるだけかもしれないが、今の柔にはそれしか出来ない。柔道以外の何かに熱中して、気を紛らわせているだけなのかもしれない。
「お疲れ様です」
羽衣とは駅で別れる。電車に揺られながら景色を見ていると、この街のどこにも耕作はいないんだと思う。昔はいつもそばにいたのに。追いかけてくれたのに、支えてくれたのに今は遠い異国の地にいる。東京よりも刺激的で賑やかで、忙しい街で彼は柔のことを思い出してくれるだろうか。
そんなことを考えていると、胸が震えて泣いてしまいそうになる。柔は目を閉じた。心を閉じたと言ってもいい。寂しさは募るばかりだ。その人に会えない限り。
新キャラ登場です。
「パトリック」は英会話教室の先生で日本語もできて、イケメンです。