vol.1 ワールドトレードセンター爆破事件
2月26日、早朝稽古が長引いて出社がギリギリになってしまった。走って会社に入るといつもと雰囲気が違っていた。電話はひっきりなしにかかり、あちこちで大声が聞こえる。そう思ったら、安堵の声も聞こえたり状況の把握が出来ない。お客様が来店される前からこんな状態の会社を、柔は入社以来見たことがない。
「あの、何かあったんですか?」
朝から既に疲弊している羽衣が虚ろに顔を上げた。
「猪熊くん、テレビ見てないの?」
「ええ、朝は稽古で忙しいので」
「テロだよ。爆破テロがあってうちのツアーで行ってるお客様の安否確認に深夜から追われてる」
「深夜って!」
「一度帰ってから呼び出された。午前3時くらいかな。テロが起こったのは正午ごろで、向こうの添乗員と連絡が取れなくてね、でもお客様の家族はジャンジャン電話してくるしもう大変だよ」
「それが今も続いてるってことですか?」
「そう。やっと電話がNYと繋がったから安否確認できてるんだけど」
柔は耳を疑う。昨日、羽衣に耳がいいと言われたこの耳を疑った。間違っていればいいと思った。
「あの……テロはどこで?」
「NYだよ。ワールドトレードセンター。詳しいことは分からないけど、現場はパニックみたいだ。ん? 猪熊くんどうした? 顔が真っ青だ。まさか知り合いでもいるのか?」
羽衣は柔と耕作の関係を知らない。選手と記者と言う関係で少々仲がいいというくらいの認識だ。
「あの、日刊エヴリーの松田記者がNY駐在で……」
「なんだって! 松田記者はNYにいたのか。彼とは長い付き合いなんだろう。心配にもなるな。よし、日刊エヴリーの電話番号はわかるな?」
柔は頷く。手は震えている。
「私が電話しても教えてくれないだろうから、君が電話しろ。仕事はそれからでいい」
「は……はい」
柔は鞄から手帳を取り出すと、震える手でページをめくる。上手くめくれなくて落としてしまう。それを羽衣が拾うと、「ごめん」と言ってページをめくる。そして電話を掛けた。受話器を持った柔はコール音と心臓の音しか聞こえない。
――どうか、無事でいて。
「はい、日刊エヴリー」
聞き覚えのある声だ。邦子だった。
「あの、邦子さん? 猪熊です」
「柔ちゃんどうしたの?」
声が少し小さい。気を遣ってくれているのだろうか。でも、何の用でかけてきたか分からないはずもないだろうに。
「NYのテロのこと知りました。松田さんは、無事ですよね?」
「耕作……? 耕作なら大丈夫よ。さっき電話があって別の取材でNYにはいなかったみたいなの」
あっけらかんとした、邦子の声に柔は心から安心してその場に座り込んでしまった。
「そうですか。連絡が取れてるなら心配ないですね。ありがとうございました」
「ううん。じゃあね」
邦子は電話を切った。少し強引だったかもしれない。でも、この混乱したオフィスの状況を柔に知られたくはない。
「おい! 松田とは連絡とれたのか?」
「いえ、昨日は家にいたと思うんですが」
「あのバカ! どこほっつき歩いてんだ! 早く連絡寄越せよな」
悪態をつきながらもみんな心配していた。耕作とはテロの一報が入ってから一切連絡が取れない。まさかワールドトレードセンターに行っていたとは思えないが、万が一と言うこともある。偶然居合わせて巻き込まれたということが絶対ないわけじゃない。
邦子は嘘をついた。それは柔を心配させないためについたもの。耕作が元気でいれば、嘘は嘘にならないから、大丈夫。そう言い聞かせて自分もここにいる。無事でいて欲しいと、誰もが思っていた。