vol.1 加賀邦子
テロ事件の騒動が一旦終息した日本の3月の初め。まだ春の気配は昼間の陽気だけで、夕方にもなればまだまだ寒さが沁みる。柔は夕食の約束をしていたので、足早に退社して待ち合わせの場所に向かった。駅前には既に彼女が来ていて、遅れたかと思い腕時計を見るとまだ5分前だ。
「柔ちゃーん!」
邦子はよく通る声で柔を呼ぶ。すると周りにいた人たちが聞き覚えのある名前に、邦子の視線の先を見る。その時に、しまったという顔をした邦子だが直ぐに柔の傍に駆け寄り腕を引いた。
「ごめんね、まさかこんなに周りが反応するとは思ってなくて」
「いえ、そこまででもないようですよ」
少し歩いて路地を曲がって振り返ると、誰かが興味本位でついて来ている様子もなく静かなものだった。
「はーよかった。でも、柔ちゃんも有名人になったわよね。昔からそうだったけど国民栄誉賞とってからは別格だわ」
「そんなことないですよ。あたしはあたしですから」
「まあ、そうね。あ、ところで夕食は焼肉でいいかしら?」
「はい」
「じゃあ、行きましょう」
邦子はまた柔の腕を引いて店を目指す。誰彼構わず腕に絡み付くのはもしかしたら癖なのかもしれないとこの時、柔は思った。
「着いたわよ」
駅から直ぐ近くの焼肉屋に邦子は慣れた様子で入って行くが、ここは結構な高級店だ。
「邦子さん、ここってあの……」
「ああ、大丈夫よ。ここはパパの友達のお店だから安く食べられるのよ。さすがにあたしも定価では食べられないわよ。おじさま~」
邦子の声に店の奥から恰幅のいい男性が出てきて、まるで姪と久々に会ったかのように優しい笑顔になった。そして柔の顔を見るなり大きな掌で握手された。
「猪熊さん、オリンピック見てましたよ。興奮しました。素晴らしかったです!」
「あ、ありがとうございます」
「今日は何でも食べて行ってください。御馳走しますから」
「え! ホント! ラッキー」
邦子がそう言ってニヤリと笑うと、
「邦ちゃんは払うんだぞ」
「ええー」
「冗談だよ。二人ともしっかり食ってけ。いい肉入ってるぞ」
「ありがとー」
邦子は店主に抱き着いた。誰にでも気安く接することが出来るその性格が柔は時に羨ましく思う。柔は自分の感情を押し殺してしまう癖がついてしまったから。
店主の計らいで個室に案内されて二人は一先ず落ち着いた。通ってきた店の方は黒い壁で薄暗い装飾だったが、個室の方は意外にも明るく壁に掛かったどこかの景色の絵も良く見えた。
「柔ちゃん、お酒飲めたよね? 何飲む? あたしはビール」
「じゃあ、あたしも同じものいただきます」
「お肉は食べれないものとかある?」
「いえ、好き嫌いはあまりないので」
「じゃあ、おまかせで行こう。ここのお肉本当に美味しいから、苦手だったやつも食べれたりするから不思議よ」
「そうなんですね。楽しみです」
程なくして店主がやって来て、オーダーをとると得意げな顔をして「焼肉の本気見せてやるぞ!」と言いながら出て行った。それから五分もしない内にビールとキムチなどが運ばれて来て二人は「お疲れ~」とジョッキをぶつけた。
「ぷはー、美味しいー」
ごくごくと飲む邦子に対して柔はちょこっと飲んでジョッキを置いた。
「ビール、苦手だった?」
「そんなことないです。おいしいですよ」
「そう、ならいいけど。柔ちゃんって言いたいこと飲み込むじゃない。だから心配なのよ」
「気づいてたんですか?」
「そりゃね。何年も見てたもの」
柔はあらためて思う。耕作だけじゃない。邦子だってずっと柔のことを見てくれていた。写真に収めてくれていたのだ。
「お肉が来る前に渡しておくものがあるの。忘れちゃうといけないもんね」
邦子は鞄から封筒を取り出した。手紙を送るサイズくらいの封筒だ。
「これ柔ちゃんに上げようと思って」
「ありがとうございます。手紙……ではないさそうですね」
手紙にしては重さも厚みもあった。
「写真よ。開けてみて」
邦子のことをまだ完全に信用できない柔は、恐る恐る写真を取り出した。何か変なものを見せられるのだろうかと、頭の片隅にあったのだが、写真を見た途端何かわかった。
「これ全部、松田さんですか?」
「そうよ。フィルムが余った時に撮ったの。正面から撮ると嫌がるから隠し撮りみたいなものなんだけど」
デスクで原稿を書いている姿、ヒーローインタビューをしている姿、必死に声を上げている姿など様々な耕作がそこにはいた。フィルムが余ったというけれど、そうでもないようなものも何枚か混じっていた。
「これね、何の試合の時かわかる?」
邦子が指さすその写真の耕作はいきいきとして、楽しそうにそして必死に応援している。その姿、その様子を柔は知っていた。柔の試合をいつもこんな風に応援してくれていたことは目の端に入っていたけど、この時ほどこの応援を欲したことはなかった。だから覚えてる。
「ユーゴスラビアの世界選手権ですね」
「正解。さすがね。この時、耕作のお父さんが倒れて取材には来ない予定だったのに、どういうわけか自費で来ちゃったから驚くわよね。ま、あたしもバルセロナには自費で行ったんだけど」
「そうだったんですか!」
「そうよ。あたしの場合は分かってるとは思うけど、柔ちゃんと耕作を近付けさせないため。耕作は柔ちゃんを応援するために行ったんだと思うわ。決勝にだけ間に合うとか、ほんと、奇跡よね」
ユーゴスラビアの世界選手権では柔はいつもの調子がでなかった。その理由は耕作がいないことだと、心のどこかでは分かっていたのに認めたくなかった。それなのに寂しくて心細くて耕作を探している自分がいた。この時にはもう耕作が好きだったのに、柔は素直になることができなかった。
「もっと早くに渡したかったんだけど、去年は柔ちゃんも忙しかったじゃない。あたしは今年に入ってから忙しくなってなかなかね。テロのこともあったし。出し渋ってたわけじゃないのよ。本当よ。こんなものあたしが持っててももう意味がないし。でも捨てちゃうのももったいないかなって思って。柔ちゃんなら貰ってくれると思ったんだ」
「はい、松田さんのこんな姿、あたしじゃ見れないですから」
耕作が他に取材に行っている様子や新聞社での様子は柔には見れないものだ。だから邦子はそれを自分だけのものにしようと思っていた。写真を渡すのを正直、ためらっていた。自分だけの唯一の思い出をあげてたまるかと。でも、写真を見るたびに、見なくても持っているだけで心に引っかかって前に進めないような気がした。
だから柔に託そうと決めた。その時、本当に心からすっきりとした気持ちになった。完全に吹っ切れたと感じた。
「お待たせ~」
店主の男性が肉を運んできた。カルビにホルモン、タンなど様々だがどれも上質なものだ。邦子がトングで網に乗せるとジューっといい音がして煙が上がる。柔も思わず見入ってしまう。
「この前はごめんね」