「でも、たった一度だけあたしに敵意を向けたことあったわよね。バルセロナの夜。雨の中で柔ちゃんがが泣いてる時、あたしが現れたでしょ。あの時、自分のしてきたことも棚に上げて思いっきり柔ちゃんに嫌味を言ったわ。フラれた腹いせもあるけど、初めて柔ちゃんが言い返してきたから何か色々爆発しちゃって……」
「あたしそんなつもりじゃ……」
「いいのよ。柔ちゃんはいつも自分を押さえて、正直な気持ちがわからないって思ってたの。耕作のことが好きなのに認めないし、風祭さんに気があるように見せてもいたでしょ」
「それは風祭さんは憧れの人でしたし、紳士的で頼れる人だったので」
「揺れていたってことよね。でも、二人に一歩踏み出せなかったのは相手がいたからよね。あたしとさやかさんが」
図星だ。風祭を好きだった時、さやかと婚約した彼をこのまま好きでいていいのか悩んだ。親が決めた仲だと言われ風祭にはその気はないと言いながらも、婚約を解消しなかったのは家のことや将来があったからだろう。そういう考えが大人になると分かって来て、心のどこかでこの人とは恋人になれないと思った。だからと言って耕作には邦子がいて他に柔の周りには男性がいなかった。
「さやかさんはそう言う点では、本当に自分の欲しい物を手に入れることが出来たのよね。柔道では柔ちゃんに勝てないけど」
「そんな、さやかさんとても強くなって今度試合したらあたし勝てるかわかりません」
「そう! それ! 五輪前の体重別で風祭さんがね、もしさやかさんが勝ったら柔ちゃんにプロポーズするって言ってたのよ」
「冗談ですよね?」
「まさか! 風祭さんってさやかさんに愛情なんて微塵もないもの。地位と名誉のために結婚したんだから。でも、柔ちゃんのことは本気で好きだったみたいで、さやかさんは柔ちゃんに勝ったら結婚することにしてたみたいだからあの体重別の時はそうなりそうだったでしょ、だから風祭さん顔真っ青になってて、万が一の時はプロポーズして逃げるつもりだったのよ!」
柔を信じつづけた耕作と、信じられなくなった風祭の命運がここで別れたと言ってもいい。
「どうしたの? 変な顔して」
「どうしよう、あたし、冗談だと思ってたから」
「何が?」
「プロポーズ」
「まさか! されたの?」
「はい……バルセロナで。48kg以下級の試合の前に。返事は試合後にって言われて」
「きゃあああ。で、断ったから風祭さんさやかさんと結婚したのよね。え? あれ? 試合後ってあの時よね? じゃあ、返事は?」
「色々あって忘れてて、でも後でさやかさんと披露宴を挙げたって聞いたからやっぱりリラックスさせるための冗談だったんだって思って特に何も……」
「間が悪かったわね。耕作のことで頭が一杯だった試合後にはもう風祭さんのことなんか入る余地もなかったってことよ。決定的よね」
「悪いことしちゃったな。あの日、雨も降ってたし」
「大丈夫よ。風祭さんはどこでも生きていける人よ。滋悟郎おじいちゃんが言ってるじゃない?」
「何て?」
「風ミドリって。風向き次第で態度を変える人だもの、あの人は。あっち向いたりこっち向いたりして結局、自分の土台になる大きな存在のさやかさんから離れらなかったのね。皮肉だわ」
「それを言ったらあたしも優柔不断で……」
「でもそれは地位や名誉、お金じゃなくて自分の気持ちがわからなかっただけだもの。意味合いが違うわ。風祭さんは人間的にどうかしてたもの」
「邦子さんそれは……」
「言い過ぎかしら? でも、そうよ。柔ちゃんにはあまりそう言う面は見せてなかったみたいだけど、あの人はかなり女好きだし扱いにも慣れてる。ただ、紳士的だから相手の女が大ごとにしないまま去っていくんだと思うわ」
耕作が風祭と一緒にいると危ないって言った意味がやっと分かった。下心なんかなくただ優しくしてくれてると思ってたけど、大きな間違いだったのだ。
「クリスマスイヴに食事に誘われたことがあるんです。まさか……」
「そのまさかよ! 当然行かなかったんでしょ」
「はい。別の用事が出来て。待ち合わせはホテルのバーだったような気がします」
「あっぶない。行ってたら完全に朝帰りコースよ」
柔は考えただけでも鳥肌が立つ。憧れの人で一時は恋心もあったはずだけど、今はそんな風には思っていない。
「あたし、考えが足りない部分があって……そのくせ頑固だし。もっと大人にならなきゃ」
「いくら強くても男に力ではかなわないもの。それに風祭さんは有段者でしょ。気を付けなきゃだめよ。いくら耕作のものになったとはいえ、自分の身は自分で守らないとね」
「え? 松田さんのものって?」
二人は顔を見わせた。
「は? だって柔ちゃん去年のクリスマス、NYに行ったって聞いたけど」
「行きましたよ」
「耕作のアパートに泊まったのよね?」
「はい……え! まさか、そう言う意味ですか?」
「そうよ。恋人同士が一つ屋根の下にいて何もないわけないじゃない。それに二人は長い年月を掛けてやっと結ばれたのよ、思いが溢れて何もしないでいれるわけ……あれ?」
柔は俯いている。邦子が想像していた表情ではない。暗い表情だ。
「何もありませんでした。邦子さんが想像するようなことは何も」
「何もって、何も? 一泊ってことないでしょ。海外だもの」
「二泊しましたが、何もなかったんです」
「まさか、耕作って男としての機能が……」
「やめてください。何か色々タイミングが悪くて、そうならなかったんです。多分……」
これ以上の詮索は傷つけるだけだ。邦子は話題を変える。
「あ、そう言えば今度ね新人が来ることになったの」
「記者の方ですか?」
「そうよ。耕作の後に誰も入って来なくて唯でさえ人手不足で困ってたんだけど、やっと後任が決まってね」
「どんな人ですか?」
「若い子よ。まだ25くらいで可愛い顔の男の子」
「へー、それは見てみたいですね」
「いずれ会えるわ。あたしと組むんだもの。柔道の取材にも行くしね。そうね、多分4月の全日本辺りかしら? 出るんでしょ?」
「はい。エントリーはしてるみたいですけど」
「相変わらずね。耕作はいないけど、勝ちなさいよ」
「がんばります」
「あ、そうそう。鴨ちゃんからも何か預かってたんだ」
バッグをごそごそと漁る邦子。また封筒が出てきた。
「さっき一緒に渡せばよかった。自分のことだけでいっぱいだったから忘れちゃってた」
「ありがとうございます」
「手紙じゃないわよね。写真かしら?」
柔は封を開けると中からやはり写真が出てきた。それを見て一瞬ぎょっとしてしまう。
「何、何? 何の写真?」
「あの、これです」
「わー綺麗じゃない。紅白の時のお着物ね。あたしも見てたわ。全然気の利いたこと言えてなかったわね」
「苦手なので、ああいう仕事は」
「甲賀選手が隣にいたけど、あの人に何かされなかった?」
「え? どういう意味ですか?」
「あの人も、なかなか女好きよ。あたしのこといやらしい目で見るもの」
「それは、みんなそうなんじゃないですか。あたしでさえも最初は見ちゃいましたし」
「そう? でも、あの人には気を付けなさいよ」
既に柔の中では警戒人物に入っているから大丈夫だ。でも、わかる人にはわかるのだろう。これが経験の差ってやつか。
鴨田がくれた写真は良く撮れていた。記念撮影をする時間も気力も無かったから本当にあの時会えてよかったのだ。
「ねえ、本当に耕作とのことは公表しないの?」
「え? ええ、松田さんに迷惑かけられないですし」
「そっか~。なんか残念。でも、いつかは公表するわよね」
「そうですね。いつかはしたいです。でも、そのタイミングは二人で決めようと思ってるので」
「わかってるわ。誰にも言わないわ。言っても信じて貰えないしね」
「すみません」
「別にいいんだけど~そうなると柔ちゃんに寄ってくる男が増えるんじゃないかと思ってね。今までは一応、ナイトが二人いたけど二人ともいなくなったわけで」
「おじいちゃんがいるんで」
「家や試合会場ではね。会社帰りとかテレビの仕事の時はノーマークでしょ。危ないわ」
「心しておきます」
「その意気よ。さあ、デザート食べて帰ろうか」
「え、ええ……」
邦子の食欲はすごかった。しゃべりながら食べて、柔とはペースが違う。その上、デザートも食べようとしていることに驚いてしまう。
でも、邦子とこんな風に食事が出来て、話が出来るとは思ってなかった。昔話も聞けてわだかまりも消えてやっと正面から向かい合えるような気がした。
「また食事いきましょうね」
「うん! あたしは耕作と違って仕事とプライベートきっちり分けるから」
「信用してますよ」
「まかせて!」
胸を叩く邦子。味方になったら心強い彼女にも、封筒の中に残ったもう一枚の写真だけは絶対に見せてはいけない。柔だってまともに見れないこの写真を邦子が見たら、何て思うか。柔は紅白の時の写真と一緒にバッグにしまう。これは誰にも見られてはいけない写真だ。