バルセロナ五輪以来久々の公式試合に出場する柔は、いささか不安を抱えながら武道館に入った。
今年は昨年までとは何もかもが違う。オリンピックでの二冠と国民栄誉賞受賞という国内外からの期待と関心が集まっている。ソウル五輪の時も金メダルを取ったがこれは正式種目ではなく公開競技であったためメダルも数に含まれないということで、柔の中ではそこまで大きな意味を持っていなかった。
しかし、バルセロナ五輪での二冠は国民栄誉賞にも繋がり柔の中でも多少は、自分の役割や背負っているものの大きさを自覚してきたようだった。しかし本人の性格上、過度の期待を掛けられてもそれを自分のこととは思えない他人事のような感覚が今もってしている。これは天才故なのか柔道と言うものをただの日常としていて、たまたま金メダルが取れただけという気持ちなのか。柔の中で柔道よりもそれによって得られた賞よりも大切なのが、それ以外のごく普通の生活なのだ。
「猪熊さ~ん」
富士子が富薫子と一緒に柔の元に来た。
「富士子さん、来てくれたの?」
「もちろんよ。猪熊さんが出るんだもの、フクちゃんにも見せたいし」
富薫子は一歳半になり、歩く速度も上がり身長も伸びていた。さすが花園夫妻の娘だ。
「おーフクちゃん元気にしておったか」
滋悟郎は赤ん坊の頃から見ている富薫子をとても可愛がっており、その可愛がり方は恐らく孫娘の柔以上かもしれない。
「じー!」
そう言って、滋悟郎の胸に飛び込むところがまた堪らないのだろう。滋悟郎もすっかりにやけた顔つきになる。
「花園くんはお仕事?」
「ええ、日曜は引っ越しも多くて休めないのよね」
「せっかく大学も卒業して、教員免許も取れたのに……」
「仕方ないわ。採用試験はまた別だもの。体育の先生は特に狭き門で、今年試験を受けてもなれるかどうか。でも、あたしもサポートするしきっと大丈夫よ」
「そうよね!」
「なーにが、『そうよね!』ぢゃ。おまえはおまえの心配をしろ。最近は稽古にも身が入っとらんし、一回戦で負けなんてことも起こるやもしれんぞ」
滋悟郎は厳しい言葉を掛けてどこかへ歩いて行った。恐らく売店に菓子でも買いにいたのだろう。
「猪熊さん、気にしちゃダメよ。いつも通りやれば大丈夫よ」
「ええ」
富士子は柔の表情を見ながら不安を覚えていた。なぜならここに耕作がいないからだ。NYにいる耕作は柔の試合だからと言って、おいそれと戻って来られるわけじゃない。いつもいた人がいないのが心細いことくらいわかっているが、今回ばかりはどうすることも出来ない。
「そういえば、この前の松田さんの記事がテレビで話題になってたわよ」
「え? そうなの?」
「お昼のワイドショーだったんだけど、NYテロの現場での記事と写真は、他社を圧倒するものだったとかで」
「すぐに駆け付けたって言ってたわ。最初は記事にするつもりがなかったけど、誰かが書かないと伝わらないからって。よその国の話ってだけで終わるのはいけないって言ってたの」
「そうなのね。だから多くの人にその思いが伝わったのね。スポーツ新聞では異例の扱いだったって言ってたから」
「うん……」
柔は嬉しくなる。多くの人が耕作の記事を読んで何か受け取って欲しい、それだけの力がある記者だから。
「ん? 猪熊さん何見てるの?」
「あ、何でもないの」
柔はバッグの中に入れていた写真を見ていた。邦子に貰った柔を応援する耕作の姿だった。
「猪熊さん……もーいいもの持ってるじゃないの」
「う、うん。お守りみたいなものよね」
「そうそう、大丈夫。松田さんもNYで応援してるわ」
廊下の奥からざわめきが聞こえる。今日は本阿弥さやかも出場する試合だ。会場に到着したのかもしれない。
ざわめきに目を向けると不意に声が聞こえた。
「本阿弥さやかの欠場が決まったんですよ」
柔と富士子は振り向く。そこには若い男性と邦子の姿があった。
「初めまして、日刊エヴリーの野波といいます。以後、柔道関連の取材は僕が担当しますのでよろしくお願いします」
小柄で童顔の男性だった。邦子が可愛いと言った理由がよくわかった。
「おはよう、柔ちゃん、富士子さん」
「あ、おはようございます。あの、欠場ってどういうことですか? 怪我か病気ですか?」
「違うのよ、ねえ、野波くん」
「はい。本阿弥さやかは海外でトレーニングをしてました。一昨日帰国の予定でしたが、度重なるアクシデントにより未だ日本に戻って来ていないようです」
「アクシデント?」
「飛行機の遅延から天候不良ですね」
「珍しいでしょ~。なんでもできるお嬢様がこんなことで遅れちゃうなんて」
「さすがにさやかさんでも、天候まではどうにもできませんよ」
完全無欠で出来ないことはないようなさやかだが、やはり天気には抗えない。今頃は飛行機の中で苛立ちを隠しきれずに、徳永に無理難題を押し付けているかもしれない。
「なんぢゃ、さやか嬢は出ないのか。今回はノッポのねえちゃんも出ないし、あのデカいねえちゃんも出ないからのお。つまらん大会になりそうぢゃ」
「トドさん、引退しちゃったものね」
藤堂由貴はオリンピック後に引退を表明し、今は西海大で指導者として柔道に携わっている。教え子が今日も試合に出るようだが、まだ柔の対戦相手としては不十分だろう。
「さあ、柔。さっさと試合を終わらせてうまいもんでも食いに行くぞ!」
「はい!」
変わり始める柔の周囲。柔道界も選手が入れ替わり、柔はすっかりベテラン勢だ。でもまだ衰えを知らないその体に、期待する人は多い。
この日、全日本女子柔道選手権は柔の優勝で幕を閉じ、さやかとの決着は次回に持ち越された。
新キャラ登場です。
「野波」は松田の後任の日刊エヴリーの記者です。若いです。