アメリカ高校柔道大会の夜、夕食のために「スパイスガーデン」へと向かった。約束したわけでもないが、何となく耕作の知り合いが一人か二人はいる。今日はデイビットがいつもの席に座っていた。
「ハイ!コーサク」
「ここいいかい?」
「もちろんだとも」
席に着く前にカウンターでビールを頼んだ耕作は席に着くなりそのビールをごくりと飲んだ。外は寒いがビールはうまい。
「今日は何してたんだ?」
「僕は映画を見て読書して、散歩してここさ」
「良い休日だな。俺は柔道の試合を見てたよ」
「前に話してた?」
「ああ、なかなか楽しかった。いい選手もいたしな」
「取材したかい?」
「少し。でも、記者として接触はしてないから取材とは言えないかもな。ところでデイビットはNYでの知り合いは多い方だろう?」
「まあ、ここの出身だしね。でも入れ替わりの多い街だからね。誰か、探してるの?」
「ロイドって柔道家知ってるか?40代でいい身なりだったからそれなりの収入がある仕事をしてると思うんだが」
「ロイド……聞いたことないな。その人が何かあるのかい?」
「柔道を教えてる人なんだが、情報が全くない。試合の関係者も知らないというし」
「柔道って直ぐに出来るスポーツじゃないだろう。テレビで見たけど広い場所がいるし、隠れてトレーニングできるとは思えないけどな」
「まあな。本格的にやろうと思えば広さも畳もいる。隠れて出来るとは思えないんだが」
「わかった。知り合いに聞いてみる。どこかで繋がるかもしれない」
「助かるよ。俺ももちろん調べるが、伝手がなくて」
「手がかり掴んだら……」
「おごるよ。もちろん」
そう言って乾杯したデイビットは、2月のワールドトレードセンターのテロに巻き込まれて怪我をした。命に別状はないが、足を怪我して動けないようだった。病院まで付き添った耕作は眠っている友人の痛々しい姿に胸を痛める。怪我人が次々運ばれてきては、現実離れした映画のような光景に思考が停止してしまっていた。悲鳴、泣き声、怒号。ここは現実ではなく地獄なのかと思う光景だった。
あの日、病室から窓の外を見ていた。夕闇が迫ってきていた。
「コーサク?」
デイビッドの掠れた声がした。耕作は自分が病室にいることを思い出し、デイビッドに向き直る。
「今、先生呼ぶから」
「ああ、すまない」
耕作は廊下に出て大きな声で医師を呼ぶ。しかし戦場のような忙しさの中、直ぐに来てくれる気配はない。
「コーサクは何でここにいるんだ?怪我したのか?」
「いや俺は無傷だ。巻き込まれたわけじゃないからな。ただ、爆破が起こったと知ってデイビットのオフィスの近くだから気になって駆け付けたんだ」
「コーサク、君はなんて愚かなんだ」
思わぬ言葉に耕作は少しだけ眉を寄せる。
「爆発した場所に何の装備もないような奴が駆け付けるもんじゃない。まだ他に爆弾があるかもしれない。一緒に吹っ飛びたいのか?」
そういうことか。心配して言ってくれた言葉だった。
「すまない。そこまで気が回らなかった」
「いや、僕の方こそごめん。心配してくれたのに、こんなこと言って」
病室内は静かだった。比較的軽症な人がこの病室にはいたようだが、付き添いの人は耕作以外来ていない。
「取材はいいのかい?」
「いいんだ。俺の新聞はスポーツ新聞だから。それに爆発の悲惨さや混乱具合はもうわかったよ。日本ではありえない光景だった。正直、恐ろしかった」
「僕だってそうさ。あんなことアメリカだからよくあるわけじゃないよ」
「そうだよな。あんなことあってはいけないんだ」
「うん……」
耕作はその後、デイビットの家族らしきが来て交代するように病院を出た。アパートに戻ると赤く光る留守電と大量のFAXが床に転がっており、再び嫌な予感がした。
案の定、編集長からの電話だったが仕事の依頼や記事の催促ではなく耕作の安否確認のための連絡だった。ビルの爆破から8時間以上経過していた。その間、連絡をしなかったことで日刊エヴリーの皆は巻き込まれたんじゃないかと思って不安になっていたという。
「生きてるならいい。怪我もないならいい。仕事できるならいい」
編集長からそう言われ、自分の置かれている立場を理解した。一人で突っ走っても日本では怒られて終わりだが、ここNYでは離れてる分、目が届かず心配を増やすのだ。巻き込まれたわけじゃなく、怪我もないから連絡何てしなかったが、きっと心配してる人はまだいる。
時計を見てまず電話したのは実家だった。耕作の声を聞いて母親は明らかに安堵した声を漏らした。そしてしこたま怒られた。連絡が遅いと。父親は電話に出なかったが、心配していたと聞かされた。
そしてもう一人。柔に電話した。コール音がし始めてから、この時間には仕事に行ってる頃だと気づいたが時すでに遅く「はい、猪熊です」と女性の声がした。
「お久しぶりです。松田です」
「松田さん! ご無事でしたか? よかったわ」
実家の母親と同じく、安堵の声がした。
「ご存知でしたか」
「日本でもテレビで報道されてますから。柔からもさっき電話があって松田さんから連絡はないかって聞かれたばかりですの」
「ご心配をおかけしました」
「無事ならいいんです。柔はまだ帰って来れないし、こちらかも電話は出来ない状況みたいで松田さんのことを伝えるのは随分遅くなりますが……」
「旅行代理店も大忙しでしょうね。柔さんが帰ってきたら伝えてくれると助かります」
「ええ、もちろんですとも」
力強い玉緒の声に安心した耕作は電話を切った。柔が帰ってくる時間にもう一度かけてみようか。そう思いながら窓の外を見る。いつもと変わらない風景だ。ワールドトレードセンターとは距離が離れてる。ここまで帰ってくるのにも随分かかった。しかし近所に来たら、何も変わらない日常の風景にさっきまでのことが夢だったんじゃないかと思った。
柔に貰ったバッグをずっと肩にかけていた。ずっとだ。ワールドトレードセンターに着いた時もデイビットを見つけた時も、病院にいた時も、今日本に電話を掛けた時も。その事にやっと気づいた。バッグをデスクに置いて、中からカメラを取り出した。本格的なカメラは使い方がわからないから、いつも簡単なカメラしか使ってない。今日も持って行った。記者だから当然だ。そのカメラを耕作はデスクの端に追いやった。
「俺は最低だ」
地獄絵図と表現しても物足りない現場でカメラを構えてた。写真を撮ってたんだ。怪我人を助けることもなく、記者として写真を撮り続けてた。そしてそのレンズがデイビットを捕えたのだ。レスキューのテントの下にいた彼を見つけて、自分の手にあるカメラを顔から離して現実を見た時、自分自身にとてつもない嫌悪感を持った。そしてカメラをバッグにしまったのだ。
デスクの端にあるカメラには、現場の様子が写っている。現像して日本に送るべきなのだろうがそんな気分にはなれない。耕作はスポーツ記者だ。スポーツ選手の熱い試合や苦悩、勝利の喜びを伝えることに誇りを持っていた。それなのに、全く真逆の世界に興味本位で踏み入り、一端の報道マンのような顔をして現場にいた。会社としては正しい行動だったかもしれない。NYにいる耕作が取材して新聞に載せることは、間違いじゃない。でも、こんな記事は書きたくなかった。
それから数時間。日本から電話はない。編集長から取材に行ったのなら記事を書けと言われるかと思ったが、未だにその要求はない。
代わりに柔から電話がかかってきた。耕作はその優しい声に思わず涙が出そうになる。遠くにいるのに近くに感じる。柔との会話の中で、二人は同じく「無力感」を覚えていた。でも柔は現地の旅行社と日本に残ってる家族を繋ぐ役割をした。それは必要なことで誰かの力になったはずだ。無力なんかじゃない。
耕作は気づいた。無力だというのなら、力にしたらいい。自分に出来る事は記事にして多くの人に、この愚かな行為を伝えなくてはいけない。テロなんてものがまかり通る世界を作ってはいけない。スポーツは平和の象徴だ。世界が平和でないとスポーツは行われないのだ。現に、1940年に開催予定だった「東京オリンピック」は日本と中国の情勢が悪化したことで中止したことがあった。そんなことは選手には関係ないことだが、政府が決めたことに従う他なく、悔しい思いをした選手は大勢いただろう。
「俺は俺に出来る事をする」
その思いで耕作はペンを取る。一気に記事を書きあげると、今度はジェシーに連絡を取った。
「こんなに早く何?仕事?」
「頼みたいことがあるんだ。フィルムの現像って出来るか?」
「何言ってるの?当たり前でしょ」
耕作はいつの間にか登り切った太陽を眩しそうに見ると、バッグとデスクの端に追いやったカメラを持って出て行った。街はいつも通りに見える。でも、そんなわけがない。この街の人の心にも深い傷を残している。それを遠い異国のことだとして、他人事のように見過ごしていいわけがない。知っているのなら伝えなくてはいけない。それが義務だと思った。