NYは7月に入り、からりとした気候で太陽の熱も激しくなり、耕作は殆ど半袖で過ごしている。仕事の取材で全米を飛び回っている耕作はアパートにいることがめっきり減り、NYに戻って来てもアリシアの取材に出かけることが多い。そのため、柔とも電話で話す時間が減り、手紙すらまともに書けなくなっていた。気になることもあったが、時間的な壁により話をすることすらできないでいた。
「愛されてると思ってほったらかしにしてると、いつの間にか捨てられてるのが男だよ」
毎年フラれているイーサンの言葉は重い。耕作は不安を覚え、NYに戻るなり記事を書きあげる前に電話をした。しかし出たのは最悪の相手。
「もしもし、猪熊じゃ」
「あ、日刊エヴリーの松田ですが。柔さんは?」
「柔なら今風呂に入っとる。取材ならわしが受けよう」
「いや、取材と言うか……」
「取材じゃないのに何で柔に用がある?」
「それは……」
「わかった! とんでもない選手を見つけたんじゃな。それで柔に警告でもだそうってことか。じゃが、そんなものは不要じゃ。わしが教える『柔よく剛を制す』は2メートル近い相手であろうとも、投げ飛ばすことが出来る。どんな猛者が現れようとも柔の敵ではないわ。かつてわしが投げたデベソもその……」
「おじいちゃん、お風呂開いたわよ……って電話?」
「そう言うわけじゃから松ちゃんよ、心配無用じゃ」
柔は滋悟郎が言う「松ちゃん」が耕作だと分かると、走って電話を取り上げた。
「何するんじゃ?」
「松田さんからでしょ」
「そうじゃが、お前はでんでもいい」
「どうしてよ、あたしに用があったんじゃないの?」
「用はわしがきいておいた」
柔は頭を抱える。すると天の助けとも言える声が聞こえた。
「お義父さん、お風呂にはまだ入られませんか? 美味しい干物を今から焼こうと思ってますが出る頃には丁度いいかとおもいますよ」
「お! 干物じゃと。こりゃいかん」
滋悟郎は風呂場に走って行った。玉緒はニコリとすると柔は受話器を取ってやっと話が出来た。
「ごめんなさい、おじいちゃんが……」
「いや、変わらない様子で安心したよ。久しぶりだね、柔さん」
「あたしのこと忘れちゃったのかと思いました」
嬉しいもあったが、電話も手紙もないことに少々苛立っていた柔はその思いを隠すことが出来なかった。
「悪い。大リーグの取材が立て込んでてなかなかNYに戻れなかったんだ。アメリカの広さが恨めしいよ」
「わかってますよ。でも、寂しかったんです」
受話器の向こうの柔の声は小さく、悪いことしたなと耕作は胸を痛める。
「最近調子はどう?」
「……悪くはないです」
「その言い方だと、良くはないってことか。体重別に出なかったのはそのせい?」
「知ってたんですか?」
「もちろんだよ。柔さんのことは逐一知らせて貰ってるし、不十分なら問い合わせもする。5月の実業団の団体戦はいい試合をしてたようだけど」
「それも知ってたんですね。松田さんはあたしのことあたし以外から知ることが出来ていいですけど、あたしは松田さんのこと新聞の記事でしかわからないんですよ」
「ごめん。俺ってそう言うところ気が回らなくて」
悪いなって気持ちもあったけど、そこまで気にかけてくれてることが耕作にとっては何よりも嬉しく感じた。自分のことなんか生きていればいいくらいに思ってるんじゃないかって勝手に思っていた。
「電話したんですよ」
「え? いつ?」
「一昨日。でもいないみたいで」
「その日は取材でカリフォルニアに行ってたよ」
「その前もいませんでした。その前も……」
泣きそうな柔の声が聞こえて耕作は動揺する。
「どうしたんだい? そんな声出して。何か話したいことでもあったのかい?」
「あったから電話したんです。でも、いなくて。あたし、怖くて……」
「怖いってどうしたんだ?」
「松田さんまでいなくなっちゃったんじゃないかって思って……」
「俺もってどういうこと? 誰かいなくなったのか?」
柔は完全に泣いていた。すすり泣く声が聞こえても、抱きしめる事さえ出来ない。バルセロナ五輪でのテレシコワ戦直前に泣き出した柔に、何も言えず何も出来なかったころと何も変わっていない。
「柔さん……どうしたんだよ」
「富士子さんが静岡に引っ越しするんです」