「富士子さんが静岡に引っ越しするんです」
思わぬ答えに耕作も驚きを隠せない。
「え!? どういうことだ? 花園と上手くいってないのか?」
「そうじゃないんです。花園くんは無事に卒業も出来て教員免許も取れたんですけど、すぐに先生にはなれなくて今も引っ越し屋さんで仕事してます」
「じゃあ、何で?」
「東京はお金がかかって、生活が大変みたいなんです。花園くんの実家は大家族でまだ下には兄弟もいるから甘えることは出来ないし、富士子さんもフクちゃんがいるから仕事もできないみたいで」
「そうか……それで富士子さんの実家に行くってことか」
「はい。花園くんは東京でも静岡でも教師になれればどこでもいいって言ってるみたいだし、静岡の方が先生にはなりやすいみたいなんです」
「それじゃあ、引き留めることなんて出来ないよな」
柔は沈黙する。富士子は引っ越しのことを柔に打ち明けた時には、もう決めていたようで「相談」ではなく「報告」だった。富士子は悲しそうにしていたが、意志は固く柔は「寂しくなるな」と言うのが精一杯だった。
「こんなこと想像もしてなかったから、あたしどうしたらいいかわからなくて」
「親友だもんな。柔道のことも含めて相談したり、励ましたり、ずっと一緒に頑張ってきた親友だよな」
「ええ、あたしをいつも支えてくれたんです。こんな友達、他にはいないわ」
耕作は柔と富士子のことはずっと見てきた。富士子は耕作の理解者でもあった。柔が柔道を辞めた時、出産直後の大変な時期にも関わらず協力してくれた。緊張しいで自信もないけど、努力家でその強さは耕作も驚くほどだった。柔道が好きだと言った。本当にそうなんだと思えるほど、楽しそうに柔道をした。そしてその傍らには柔がいた。
「富士子さんにとっても苦渋の決断だったと思う。柔さんと柔道をするのが大好きだったから。今は柔道を休んでるけどいつかは戻る気でいたと思う。それだけの根性はある人だから」
「そうかもしれないけど……」
「そう、でも静岡に行ったら難しくなる。それでも富士子さんは母親として妻として決断したんだ。苦しかったと思うよ」
「友達ってこういう時に何もできないのね」
「そんなことはないよ。富士子さんは柔さんが柔道してるのを見るのが好きだから。君が柔道をやっていればきっと心の支えになる。かつてバレエで挫折してた時に、勇気を貰ったと言っていただろう」
「また、柔道ですね。あたしにはこれしかないのかな」
「これしかじゃない。柔道があるんだ。他の人にはこんな強力な武器はないよ。柔さんの柔道は多くの人を励まして熱狂させるだけの力があるんだ。日々の暮らしの中で退屈に感じている思いを明るく照らす光があるんだ」
「そんな力は……」
「あるんだ。俺が言うんだから間違いないよ」
「…………松田さんが言うなら信じてみようかな」
「それに俺たちは常に変化をしている。君の周囲が目まぐるしく変わった昨年から、今の状況はそれ以前とは違うはずだ。日々変わる環境の中、前に進むことを止めることは出来ない。君自身も、新しいことを始めたり新しい出会いがあったんじゃないか?」
柔の中に邦子とテレシコワの姿が浮かんだ。そして柔道部のみんなと行った団体戦では新たな一歩を踏み出せたと思った。そしていつか役に立つと始めた英会話。それも身についてるかはわからないが、楽しくレッスンを受けている。
「でも変わらないものもあっただろう」
「え?」
「富士子さんとの友情だ。むしろ深まったかもしれない。だから静岡に行ってもそれは決して変わらないよ。それが友達だ」
「うん……」
「君が泣いていたら富士子さんは静岡で新しい生活を送れない。違うかい?」
「違わないけど、あたしはいつも置いて行かれるの。お父さんも、松田さんも、富士子さんも……みんないなくなった」
「虎滋郎さんは帰って来ただろう」
「松田さんには置いて行かれる方の気持ちはわからないわ」
沈黙する松田。柔は泣いている。そばにいれば抱きしめるのに、それも出来ない。
「…………置いて行かれてるのは俺の方だよ」
「え?」
「柔さんはいつも俺の前を歩く。どんどん遠ざかる。俺はそれを追いかけるので精一杯だ……たまに振り返る君が笑ってくれていれば俺は頑張れる。君が柔道をして輝いていれば道は開ける」
「松田さん?」
「ゴメン、変なこと言った。忘れてくれ。でも、富士子さんを困らせないように見送ってやれよ。友達だろう」
「うん……そうですね」
柔は涙を拭った。自分のことばかり考えるのはやめようと思った。耕作の零した言葉は柔にそう思わせた。
いつの間にか干物の焼ける匂いがしてきて、滋悟郎が歌いながら廊下を歩く音がした。柔は見つかると煩いからと電話を切った。ざわついていた心が静かになった。