7月の良く晴れた土曜日に富士子の引っ越しが行われた。引っ越し屋のバイトをしている花園はスタッフの一人としてトラックへの積み込みを行った。元々そんなに荷物は多くないので、予定よりも早く片付いた。
「あれ? もう終わっちゃったの?」
丁度、トラックの扉を閉めたころに柔がやってきた。
「猪熊来てくれたのか?」
「でも、遅かったみたいね。富士子さんは中にいるの?」
「おお、掃除してるぞ」
相変わらず大きな体で暑苦しい笑顔を見せる。高校の頃から変わらない。人が良くて素直で優しい。花園は一時期、柔に恋していたが富士子と出会ってその想いは消え去った。柔に対する想いは憧れや尊敬が大きかったのだ。柔道の強さは高校生男子以上だった。武蔵野高校柔道部を救ってくれたスターだった。
「花園さん、今の、猪熊柔ですか?」
引っ越しスタッフの一人が信じられないと言った様子で聞く。
「本物だぞ」
「さすが奥さんがメダリストなだけありますね。今朝、奥さんに会った時も驚きましたけど」
「知らなかったのか? 俺の奥さんが五輪にでたこと」
「噂には聞いてましたけど、冗談か嘘かと……」
「そんな嘘、誰が得するんだよ」
花園が豪快に笑ってると、もう一人陰から背の高い男性が出てきた。
「強い強いって言っても男には敵わないでしょう。あんなに小柄で、重量級の選手を倒すことだって不可能に近いはずだ」
「猪熊は強いよ。俺は高校の時に試合してもらったし、大学の時も短期間だが一緒に稽古をしたことがある。男の俺でも倒れそうな稽古の後に平気な顔して仕事に行くし、男だろうと関係なく投げれる強さがある。猪熊はそういう柔道をする人だ」
「そうは見えないけど」
やっぱりどうにも信じられない。小さい体で細い腕でどうして花園のような大男を投げれるのか。
「昔から知り合いなんですか? 奥さんつながりで知り合ったんじゃ?」
「いや、高校の同級生なんだ。その後、俺は猪熊関連で奥さんに知り合った」
意外や意外と言わんばかりに、花園を見やる二人。
「なんだ?」
「握手とかお願い出来ないですかね?」
「聞いてみるけど他ではするなよ」
花園は二階へ上がっていく。
「おーい、猪熊?」
「何、花園くん?」
富薫子と遊んでいる柔が振り返ると、引っ越しスタッフ二人と一緒に花園がいた。事情を聞くと柔はそんなことくらいならと快諾した。
「それじゃあ、少し早いけど静岡へ向かうんで、あとよろしく」
「ええ、気を付けてね」
富士子が見送ると花園はトラックに乗って出発した。
「免許、持ってたの?」
「必要になるだろうからって取ったのよ」
「富士子さんは一緒に行かないの?」
「後で新幹線で追いかけるの。トラックにはもう乗れないし、こちらでも少し手続きがあるから。でも、思ったより早く終わったからまだ管理会社の人は来ないわね」
「そっか……じゃあ少し話もできるね」
「ええ。何もないけど座りましょうか」
ガランとした部屋には本当に何もない。引っ越しと並行して掃除もしてたからもう殆どピカピカだ。その光景がどうにも寂しさを増幅させる。
「とうとう行っちゃうんだね」
「うん。寂しくなるわ」
「それあたしのセリフ」
二人は顔を見合わせて笑う。