「猪熊さんが松田さんと上手くいって本当に安心したわ」
「どうしたの? 急に?」
「だって本当にやきもきしたもの。猪熊さんは自分の気持ちを認めないし、松田さんは思いを押し殺して自分は記者だって言い聞かせているようだった」
「でもそれは仕方ないのよ。あたしは松田さんのせいで騒がれて大変な思いもしたし、松田さんは……よくわからないけど」
「松田さんはね猪熊さんがスターになっていくことを望んでいたけど、それと同時に自分から遠ざかっていくと思ってたんでしょうね。自分が相手にされるわけがないって。身の程知らずって思ったんじゃないかしら」
「どうしてそんな風に思うのかしら。自分でそうさせたのに。それにあたしはあたしよ」
「花園くんが言ってたの。大学のレギュラーになるために猪熊さんと稽古してたじゃない? あの時に松田さんにラーメン御馳走になって取材したいって言われたんだけど、花園くんは断ったの。結果が全てだから。頑張ってるところなんか見せたくないって。あたしにふさわしい男になりたいって」
富士子は自分で言って照れていた。
「花園くん、強くなるまで会わないって言ってたわ」
「その時にね松田さんも真剣な顔をして何かを考えてたみたいなの。それがね猪熊さんのことじゃないかって花園くんは言うの」
「まさかー」
「あたしもそう思うわ。猪熊さん特別だから、男の人はプライドが邪魔をして思いきれないのよ。花園くんも……あたしが言うのも変だけどそうだったみたい」
釣り合うとかそんなことどうでもいいのに。好きだって言ってくれればそれだけで、心は満たされるのに。そんな簡単なこともさせられないほど柔はスターになってしまった。
「でもそんなプライドかなぐり捨てて、松田さんは告白したんでしょ。アメリカに行く前にきっと勇気を出したのね」
「うん……」
思い出す。柔はあの時、邦子から聞いていたからきっと両思いなんだと思ってた。でも、気持ちを伝えるタイミングがなくて、いつでも言えると思っていたら先延ばしにしていた。気づいたときには遅すぎて、足元から崩れ落ちそうになった。耕作がNYに行くと聞いたときには。
押し込めていた思いはもう既に胸にとどめるには大きすぎた。国民栄誉賞の授賞式なんてどうでもよかった。それなのにこの時も、優柔不断の柔が足を重くした。でも耕作が突然現れて、会場は大騒ぎになったけどそのおかげで抜け出せた。空港で何も言わずに別れた時、自分の勇気のなさに腹が立った。
でも、耕作は戻ってきた。エスカレーターを一生懸命昇って。そして耕作の思いを聞いて、柔は人生で一番幸福な時を迎えた。後から来る別れを忘れるくらい。
「猪熊さんってずっと不安そうな顔してた。何かに迷っている顔」
「そうかな……」
「いつも何かと柔道を天秤にかけてた。お父さんのこと、学校、仕事、恋愛、友情……」
「結局いつも柔道をやって解決しちゃうんだけどね」
「でも、その天秤が最近は安定してると思うの」
「不安も迷いも減ったから。お父さんの所在もわかって、仕事も恋愛も上手くいってる」
「あたしがいなくなることがその天秤を不安定にさせるんじゃないかって思ったわ。自意識過剰かしら?」
「そんなことない! 富士子さんが引っ越すって聞いてあたし、不安だった。試合会場には松田さんはいないし、富士子さんもいない。一人ぼっちな気がしてた。でもね、試合が終わったら一緒にご飯食べようとかお茶に行こうとか考えると楽しかった。でも、それももうかなわない」
「あたしもね、不安だったわ。いつも不安だった。試合では緊張しちゃうからいつもの力が出せなくて、みんなに迷惑かけて期待を裏切って……でもね、それでもあたしは柔道が大好きだから続けてきたの。今はお休みしてるけど、いつかはまた始めたいなって思うの。柔道はあたしにとって宝物だから。絶望の淵にいたあたしに生きる希望をくれた。友達も、旦那様も、五輪の銅メダルも……そして最高の親友のあなたと出会わせてくれた」
富士子は泣いていた。柔に出会って人生が変わった。東京に出て来ただけじゃ、これだけ変わることはなかった。きっと今も適当な会社でOLして無為な人生を送っていたと思う。バレエの代わりになりえたのは柔道だけ。他の何でもない。そして一緒に歩んできた柔がいたから大切な宝物になった。
「富士子さん……あたしも富士子さんに会えてよかった。一緒に柔道できてよかった。いつも一緒にいてくれて頼もしかった」
「ごめんね、勝手に決めて。相談したらきっとあたし、決断できなかった。猪熊さんと一緒にいたかったもの。でも、無理だから……あたしがもっと器用に生きていければよかったけど……」
「そんなことないわ。富士子さんも花園くんも頑張ってたもの。誰のせいでもない。だからあたし、笑顔で見送ろうと思ったの。それにね気づいたの。住むところは離れても、心ではみんな繋がってる。応援してるし、応援してくれてるって信じてるから」
「強くなったのね。それが松田さんのお陰なのよ。確かな絆で結ばれていれば、顔が見えなくても信じられるもの。不安だって言葉にしたら軽くなるから。飲み込んではダメ。伝え合うのよ」
「うん。って、いつの間にか松田さんとあたしの話になってるわ」
「ほんとだ! やっぱりお節介焼きたくなるのよね。あなたたち見てると」
「もー、富士子さんったら」
富士子は柔の手を取った。
「本当にありがとう。楽しい五年間だった。離れても応援してる。何か言葉にしたいことがあったら電話して。あたしもするから」
「あたしこそありがとう。富士子さんがいたら今のあたしがあるの。富士子さんこそ、結構重大なことを黙ってることあるじゃない。今度はもう少し早めに教えてよね」
「はい……あら?」
富薫子が二人の手の上に小さな手を置いた。柔らかくてかわいい手だ。
「フクちゃんにも猪熊さんみたいな親友が出来るといいな」
「きっとできるわ。富士子さんの子供だもん。いい子に育つに決まってる」
「強い子になっても欲しいの。あたしたち夫婦で上がり症だから」
「気にするほどじゃないわ。今までのフクちゃんと見てるとその心配もなさそうだけど」
「柔道をさせるつもりなの。無理強いはしないけど」
「それがいいわ。もしかしたらバレエをしたがるかもね。あたしはバレエの方が素敵だと思うわ」
「あたしたちの子よ。身長が伸びるわ。苦しい思いをさせるから……」
「でも、やりたいって言ったら?」
「もちろん、やらせるわ。そしてもし挫折することになったら、一緒に次の道を見つけるわ。あたしが柔道と出会ったように」
「だー!!」
富薫子も気合十分だ。未来は果てしなく広がっている。どうなるかはわからないけど、今はこの時間を大切にしたい。
「富士子さんの淹れたお茶が飲めなくなる前に、淹れ方教わっておけばよかったな」
「今度会った時に教えるわ」
「じゃあ、またね」
タイミングよくチャイムが鳴り、管理会社の社員がやってきた。そして他の業者もやって来て手続きの全てが終わり、富士子はタクシーで東京駅に向かう。柔はタクシーには乗らずその場で見送った。遠ざかるタクシーを見送る。もう戻って来ないのに、その場所が恋しくて離れがたい。
涙を堪えて空を見上げると、無性に耕作の声が聞きたくなった。柔は振り返ることもなく、家に帰った。