「ヤワラー! 久しぶりだわさー」
「ジョディ!」
ジョディは駆け寄るなり柔を抱きしめた。大きなジョディに柔は埋もれてしまう。
「ヤワラ、来てくれてうれしいね。手紙は届いたんだわね」
「届いてないの。さっき松田さんから事情を聞いて……」
「Oh 悪いことしたね」
「そんなことないわ。ジョディの大事な時に一緒にいられるのは嬉しいわ」
「そうだわね。でも、マツダと一緒の時間、とってしまった。ごめんだわね」
柔は顔を赤くした。
「否定しないだわね。マツダとはステディになったんだわね」
「それは、そうなんだけど。まだ内緒なの」
「わかるだわね。ヤワラ、スター。騒がれるとめんどうね」
「う、うん。そんなことより、ジョディ、どうして引退するの? また試合しようって言ったのに」
ジョディはルネの顔を見る。
「足の調子は良くないだわさ。バルセロナから帰ってトレーニングして、昔の傷が痛みだしたんだわね。でも、そんなものは一時的なもので、治るって先生言ってただわさ」
「じゃあ……別に理由が?」
「赤ちゃんが欲しいのね。私、もう若くない。次のオリンピックまで待ってたら30歳過ぎてしまうだわさ」
「富士子さんみたいに産休するって言う道も……」
ジョディは首を横に振る。
「フジコは若かった。私、自信ない。体ももうボロボロ。ヤワラより重いから、負担大きいね。それに……」
日本語のわからないルネはただ二人の様子を見守っている。ジョディはルネを見て微笑む。
「ルネは私を支えてくれたね。自由にさせてくれたね。今度は私の番。ルネの願い叶える。子供沢山欲しいって言ってただわね。それ出来るの私だけね」
ジョディは結婚して5年になる。ルネはジョディを支え続けた。競技は違えど同じスポーツ選手としてその喜びも苦しさも理解し分かち合えた。でも、そろそろ夫婦としての将来を考えなければいけない段階に来たのだ。
「ヤワラとの約束はバルセロナで果たせたね。また試合するのもオリンピックでなくてもいいだわね」
「そうだね。あたし、そう言うことなんにも考えてなかった」
「仕方ないね。マツダとは離れて暮らしてるね。結婚もしてないね。それにヤワラはまだ若いね」
「結婚、出産を考えて23は若いかしら」
「若いね」
「みんないなくなって行っちゃうわ。あたしも……」
「NO! ヤワラは柔道続けるね。理由もないのに引退何て引退したみんなが許さないね」
「そんな勝手な」
「出来る事なら柔道続けたいね。でも、みんな事情ある。続けられない事情があるね。ヤワラは続けられるなら、続ける。それがみんなのため。ヤワラのため」
「あたしの?」
「後悔しないためにね」
控室のドアが開いた。関係者の人がルネに声を掛けた。そしてジョディに何か言った。
「そろそろ時間ね。ちょっとここで待ってるね」
「うん」
一人取り残された柔。こうやってみんないなくなる。また寂しさで足元が震えた。
会見が始まりジョディは引退の報告と感謝の言葉を述べた。無差別級では銀メダルだったが歴史に残る試合を見せたこと、78kg超級での金メダルはカナダでの人気を更に高めた。それ故に、今回の引退はカナダ国内では大きく取り上げられることとなった。
「引退後はどのような道を歩むでしょうか?」
カナダ人の記者が訪ねる。
「休養を取って、望まれるならばコーチなどをしていきたいと思ってます」
ジョディが話し終わると、多くの記者が質問をするべく挙手した。その中には耕作の姿があった。
「マツダ! 何が聞きたいね?」
いきなり名指しされた耕作は手をひっこめそうになるが、そこはひるんではいられない。
「日本の日刊エヴリーです。ジョディ、バルセロナ五輪での無差別級。自分ではどのように分析していますか?また、猪熊柔にこのことは伝えましたか?」
流暢な英語で耕作が質問すると、ジョディも目を見開いて驚いたが嬉しそうに目を細めた。
「バルセロナでの無差別級は全力を出した試合でした。体力的にも肉体的にも最高の状態で試合に臨みそして負けました。出し切ったといってもいいでしょう。楽しい試合でした。またいつか試合出来たら嬉しいです。引退のことは伝えました。ヤワラとはソウル五輪の前から親交があり、ライバルです。まだ心の整理がついていないようでしたが、きっと彼女は立ち上がるでしょう。支えてくれる人がいるから」
そう言ってジョディはウインクした。耕作は息を飲む。お願いだからそう言うのはやめてくれ。
会見終了後、耕作はホテル関係者から隙を見て控室の方に案内された。そこには柔もいて、耕作を見つけるなり駆け寄ってきた。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま。会見見てた?」
「少し。だって見てもわからないもの」
「そっか……」
二人だけの空気が流れているがここにはジョディもルネもいる。
「マツダー!! 会いたかっただわね」
「ジョディ、俺には英語でいいよ」
「そんなことしたら、ヤワラがのけ者みたいね。だめね」
「それもそうか。でも、ルネは?」
「ルネは気にしないね。二人はお客様だわね」
ムキムキのマッチョのルネは相変わらずいい笑顔でみんなを見守る。
「そろそろパレードがあるね」
「え? 引退パレード?」
「ヤワラは今度も一緒に乗るね?」
「あたしはいないことになってるし、ここにいるわ」
「それじゃつまらないね。そうだ、マツダ、一緒に連れてくね」
「それは……まずいよ。柔さんがいたらそれだけで世界中の記者が大騒ぎさ。記事になる」
「だから変装するね」
「変装?」
それから30分後、トロント市庁舎の前からオープンカーに乗ったジョディが、観衆の中を通りぬけていく。手をふって感謝を伝える。本当にファンが多く、パレードの数百メートルは人でごった返している。
柔は少年のような服を着て帽子をかぶって、耕作の横にいた。正直言って何も見えない。しかしここは長年取材をしてきた耕作の経験で、人ごみを華麗にかき分けながら最前列に行くことが出来た。もちろん柔の手を引いて。
「大丈夫?」
「はい。なんとか。でもすごい人ですね」
「ああ、ジョディはこれだけ愛されてるんだ。そして君も同じくらいいや、もっと世界中にファンがいる。正真正銘のスーパースターだ」
「あの、あたしは……」
「来るぞ」
背中から一気に歓声が上がり、音で押されそうになる。オープンカーに乗るジョディは柔に気付くと手を振った。それを耕作は逃さずカメラに残す。ゆっくりとはいえ車だから一瞬である。気づけばもう後ろ姿だ。
「戻ろう、ここにいたらもみくちゃにされるぞ」
「はい……」
再び耕作は柔の手を引いてホテルに戻る。人の流れも穏やかになり、耕作は柔の手を離した。それを残念そうに見つめる柔。
「さっき、何か言いかけなかった?」
「さっき?」
「パレードの少し前」
「あの……」
「ん?」
「あたしはスターなんかじゃないって思ってたし、普通の女の子でいたいって思ってたんです。でも、もう無理なんですね」
「そんなことはないさ。ジョディはこれから普通の女性になる。ただ、オリンピックのメダリストって言うのは一生ついてくる。それがいいか悪いかは今後の人生でしかわからない。でも、誇れるものがあるって言うのは人生の励みになるぞ」
耕作の笑顔に柔もつられて笑う。まだ良く意味が理解できない。いつか分かる時が来るのだろうか。