朝食の後、昨日約束したボートに乗るために湖畔へ向かう。木製のボートにオールが2つ。桟橋に括り付けられたロープの先でボートは揺れている。
「いってらっしゃいだわね」
「いってきまーす」
ギーギー音を出しながらオールを漕ぐ耕作。波がほとんどない湖では操作は容易だ。湖の中央辺りに行くと漕ぐのをやめた。
「やっぱり疲れるな。ボート漕ぐなんて何年振りだろう」
「お疲れ様です。見てください松田さん! 綺麗な景色!」
見上げると、鮮やかな緑色した木々に囲まれ、遠くには山もある。水の透明度は限りなく高く、水が青く見える。
「おおーカナダっぽいな」
「カナダですから」
柔は湖に手を少しつけたり、空を仰いだりしていたがあまりに静かで心地よくて、話すことも忘れてただ耕作と二人きりのこの空間を漂っていた。
「今、この世界に俺たちしかいないみたいだな」
「そうですね。静かで穏やかで……」
小さな鳥が水面に近寄ると、鮮やかに小魚を咥えて飛び立った。木々の間には動物の気配がしていて、小枝が折れる音や葉が揺れる様子も見てとれた。人の声や人工物の音がない世界で二人はただぼんやりしていた。
暫くして大きな雲で太陽が隠れ、二人がいる場所も影となった。思わず見上げると、濃い青空に白い雲がふわりと浮かんでいた。
「昨日の星空綺麗でしたね」
「ああ、さすがカナダだな」
「もしかして松田さんってあんな星空見たことありました?」
「ん? そうだな。実は山形の田舎では見れたんだよ。だからいつか柔さんにも見せたいなって思ってたんだけど、ジョディに先を越された」
「そんな! ここと山形とではきっと違いますよ」
耕作は気づいてないが、柔は耕作が自分を実家のある山形に連れていきたいと考えていることに喜びを感じた。
「そうかな。星は星だぞ。カナダでも山形でも同じさ」
またしばしの沈黙。柔は心の中で耕作の言葉が反芻された。
――星は星だぞ。同じさ。
「夜に暗いことなんて当たり前なのに、東京は明るすぎて星って見えないんですよね。強い光のものだけが少し見えるくらいで……」
「スピカやシリウスって言われる一等星は見えるよな」
「あたしはその星と似ていますか?」
「どうしたんだ、急に?」
「よくみんなが言うじゃないですか。スーパースターだって。あたしは東京でも見える星みたいな存在なのかなって」
「もちろんそうさ。みんなが憧れ、目標にする星さ。どんなに地上が明るくても決してその輝きは消えない。そう言う星は、本当に特別さ。一等星は21個しかないんだから」
耕作は熱く語る。天才と呼ばれる人は普通とは違う光を放つ。その光をより多くの人に伝えるのが記者たる自分の仕事だとも思っている。
「でも、昨日は沢山の星が見えました。一等星の隣にも沢山の星が。その全てがあたしはそれぞれ個人の光る才能だと思いました」
「それは暗かったから見えたんだ。明るいところでも見えることが重要だと俺は思う」
「でも夜が暗いのが本来の夜空ですよね。邪魔するものがなければ、人は誰しも空に輝く星なんです。あたしはそう感じました」
一等星の横で光る無数の星。その数の多さに、柔はどういうわけか賑やかさを感じた。東京の星は寂しい。でも、この静かで暗い夜空はとても賑やかなのだ。
「松田さんも文章を書いて思いを伝える才能があります。邦子さんにはカメラが。お母さんには料理や家事。みんな何か持っているんです」
「俺は君とは違うんだ。凡人で特別じゃない。俺くらいの記者はごまんといる」
「でもさっき言いましたよね。星は星、どこで見ても同じだって。それは星に差がないって言ってるようなものですよね」
「それは見上げる星のことで、比喩としての星じゃ……」
「あたしは都会の空で輝く星よりもここみたいにみんなが輝く中で見つけて貰いたいです。その人にだけでもあたしが特別に輝いて見えればいいんです」
普通でありたい。ただ大切な人の特別であればそれでいい。
――あたしはそう言う人をもう見つけたわ
耕作は寂しげに水面を見つめる柔を見つめる事しか出来なかった。ここまで言わせて耕作はやっと柔の真意を理解した。頭では分かっていたことだ。柔は柔道をしてないときは普通の女性であること。それでも特別扱いしてしまうことがある。それは自分のプライドのせいだ。NYに行く前から彼女は特別だと言い聞かせることで、踏みとどまることが出来る。それがまだ続いているのだ。恋人になった今も、一歩踏み出せないのはそうやって特別視しているからだ。
「柔さ……」
「おーい、二人ともいつまでそこにいるね!? ランチの時間だわさ」
ジョディの声が湖の岸で聞こえる。静かなのでよく聞こえた。
「ジョディが呼んでる。行きましょう」
耕作は柔に声を掛けられないままボートを漕ぐ。重い空気がボートを沈めそうで早く岸にたどり着きたかった。だが情けない自分をこのまま湖に沈めてやりたいような気持ちにもなった。