「カナダ側の賑わいを見た後で、アメリカ側に行くととてつもなく寂しい感じがするな」
「そうですね。両方賑わっているとばかり思ってました」
「でもここも一応ニューヨーク州なんだぜ」
「え! ここも?」
「そうそう。なんか不思議だな」
「やっぱり規模が日本とは違いますね」
車窓からは田舎の自然あふれる風景が流れていて、耕作が住んでいる辺りとは全く違う空気だった。日本でも東京都心と多摩の方では雰囲気が違うのと同じか。でも、ナイアガラの滝は世界的に有名な観光スポットなのだが。
椅子に座ってリラックスした気持ちでいると、耕作が静かに口を開く。
「柔さん、ありがとな」
「急にどうしたんですか?」
「いつも俺に付き合ってくれて強引で困るだろう」
「そんなことないですよ。あたしの方こそわがままで困らせてばかりです」
「わがままか……柔さんが柔道するのは自分のためじゃない部分が多いだろう。だからやりたくないと思ってそれを口にすると、わがままだと捉えられてしまうんだよな。みんなが応援してるのに、何で試合に出ないのかってね。俺もそう思うことがあるよ。事情を知っている俺でさえね。でも、それをわがままっていうのは違う気がするな」
「そうですか? あたしが勝手に柔道しないって決めたあの体重別の時もそう思いました?」
「虎滋郎さんのことを知ったら柔道辞めるだろうなとは思ってたよ。だから隠してたんだから。柔さんの家のことと気持ちの問題と、柔道の試合に出ることは正直言って別問題なのに世間は区別しない。なぜなら試合することが当たり前で、それを見ることを楽しみにしているのが世間ってものだからな。事情も何もあったもんじゃない。って、俺が言うなだな」
「わかってくれる人がいるだけでいいんです。楽しくて始めた柔道がいつしかみんなの期待とか義務を背負って押しつぶされそうになりそうになるんです。あたしは柔道が嫌いだと口にしていても、いつの間にか畳の上にいた。期待されてそれに応えることが、いいことだと思っていたんです。柔道じゃなく世間やおじいちゃんと戦うことを諦めて、結果を出して自由を得ることにしたんです」
「ごめんな……俺のせいだな。俺が柔さんを追いかけたりしなければ」
「やめてください! 松田さんのせいじゃないです。あたしは松田さんがいたから柔道を続けてこれたんです。もし松田さんがいなかったらきっと本当に身勝手な人生を歩んでいたと思います」
「それが普通のことだよ。やりたいことをやるのが普通だ」
「反発から柔道をしないことはやりたいこととは違いますよ。それに今はあたし、柔道は嫌いじゃないですから。あたしとみんなと繋げてくれた大切なものですから」
耕作は優しく微笑む柔を見つめる。
「大人になったな……」
「あたしはとっくに大人です」
「ははっ、そうだったな」
子ども扱いしていたのは自分か。守って道を示して来たつもりだったが、そんなことはなかった。耕作の方がわがままで自分勝手だった。記者は遠慮何てしていたら仕事にならない。身勝手だと怒られても進み続けなきゃいけないのだ。例え嫌われても。
「柔さんは優しいから時々不安になるよ。誰かの為に試合に負けてしまうこともあるんじゃないかって」
「そんなことしませんよ。試合に勝つことはあたしの自由の代償です」
「その代償が必要なくなった時、負けてあげてしまうかもと思ったんだ」
「それは引退の時ってことですか?」
「ああ。負けたから引退するのと、引退のために負けるのとでは違うからな」
「じゃあ、約束します。あたしが負けることが今後あったら、その時は全力を出しても敵わなかった時。本当の負けであると」
「できればそんな日が来ないといいな」
「そればかりは分かりません。さやかさんも強くなってます。フランスのマルソーさんも強いです。他にも出てくるかもしれません。まだ出て来てないだけで」
耕作の頭に一人の女性が浮かぶ。今後、柔を脅かすかもしれない柔道家。でも、まだその存在は明らかに出来ない。
バッファロー空港に着くとJFK空港行きのチケットを取って搭乗した。およそ1時間半ほどで一昨日一瞬だけ降り立ったJFK空港へ到着した。相変わらずの人の多さと賑わいでカナダの静けさがもう恋しくなる。
「あとどのくらい時間ある?」
「1時間くらいですね」
「そう……って、あと1時間って!」
耕作は慌てる。柔の言っていることはちょっとおかしい。
「あと1時間って午後5時だろう。列車で行ってたら間に合わなかったんじゃないか?」
「あ!」
「どういうことだ?」
「単純に間違えただけです」
柔は背を向けて話を終わらせたが、耕作は何か腑に落ちない。こんなミスをするだろうか。しかし今までも柔は試合の日程を忘れたこともあったしうっかりすることも無くはないかと納得させた。
空港で買い物してたらあっという間に1時間。また二人は別れの時を迎える。
「今度はすぐ会えるな。来月の世界選手権。またカナダだ」
「出場できればですけど……」
柔の声は小さい。離れたくない寂しいが滲み出ている。
「出れるさ。君が出なくて誰が出るんだ」
「…………」
「どうした?」
柔は辛抱できずに耕作の胸に飛び込む。驚いた耕作だったが直ぐに柔を抱きしめた。
「不安だよな……俺が一緒にいてやれればいいんだけど」
「松田さん……その言葉だけで十分です」
今回の旅行は二人きりと言う時間はあまりなかったが、それでも沢山話して沢山気持ちを知れた。離れている分すれ違ったりすることもあるが、たまにこうしているだけでも柔は十分満たされる。鼓動が聞こえる距離に、温もりが感じる距離にいることが必要だけど今はまだそれが毎日というわけにはいかない。
「松田さん……そろそろ」
「ああ、ごめん」
慌てて離れる耕作に柔はなごり惜しそうにしていたが、髪を整えた。そしてバッグから小さな箱を取り出す。
「これ早いですけどお誕生日プレゼントです」
「え? 誕生日?」
「8月26日ですよね?」
「そうだけど……いや、驚いたよ。何かもらえるとは思ってなくて」
「お誕生日にプレゼント貰いませんか?」
「子供の頃はもらってたけど、大人になってからは記憶にないな」
「邦子さんからも?」
「加賀くんから? どうして? 欲しい欲しいとは言われたけど、貰ったことなんてないよ。そもそも俺の誕生日なんて知らないだろうし」
「そうなんですね……」
ちょっと嬉しくなる。
「開けてもいい?」
頷く柔に耕作はその小さな箱を慎重に開ける。
「腕時計か……しかもデュアルタイム型じゃないか」
「アメリカと日本に時間が直ぐにわかると思って」
「こりゃ便利だ。それにかっこいい!」
耕作は直ぐに腕に付けて見せた。ちょっと大きいかと思ったが、実際つけてみるとバランスも良く似合っている。
「ありがとう。大切にするよ」
新しいおもちゃを手にしたみたいに腕時計を見ている耕作に、柔は横から頬にキスをした。
「な……」
顔を真っ赤にする耕作と柔。
「あたしのこと忘れないでくださいよ」
「わ、忘れたりするもんか。絶対にない。毎日思ってるよ」
「あたしも毎日松田さんのこと思ってます」
柔は出発ゲートに入って行った。耕作はその様子をいつまでも見守っている。一度だけ振り返った柔は遠慮がちに手を降って見えなくなった。