NYの耕作はとある人に会いにホテルに来ていた。超一流ホテルのフロントは声を掛けるだけでも緊張する。それに相手が会ってくれるかもわからない。
部屋に電話をしたフロントマンは耕作に少し待つように言い、暫くするとエレベーターから見知った顔が出てきた。
「お久しぶりですね。1年ぶりですか?」
「ああ、そのくらいだな」
二人はホテルのラウンジでコーヒーを頼んだ。
「忙しそうだな、風祭……いや、もう本阿弥か」
「今まで通り風祭でいいですよ。松田さんの方こそこっちで忙しそうじゃないですか」
「まあな。人手不足なんだよ。その割に仕事も多いし、距離もある。いや、そんな話をするために呼び出したわけじゃないんだ」
風祭はドキリとする。耕作がわざわざ風祭を呼び出して話すことなどそんなにはない。あるとすれば柔関係のことだ。しかしそれも今では風祭は殆ど接触してない状態なので、よくわからないことくらい知っているだろうに。
「さやかも一緒だろう?」
「ええ、もちろんですよ。でも、今回は柔道じゃなくて仕事です」
「そうか。世界選手権出場しないんだってな」
「さすがにお耳が早いですね。さやかさんは試合とかメダルに興味はないので、出ないと言ってましたよ。柔さんと戦えるなら別でしょうけど」
「お嬢様らしいな。ところでちょっと頼みがあるんだが……」
「なんですか、松田さんが頼みなんて」
風祭はいつ耕作と柔のことを聞かされるのか気が気じゃなかった。できるなら決定的なことを聞かないでおきたかった。国民栄誉賞の授賞式で二人は手を取り合って会場から姿を消した。その後、二人の関係については長い付き合いの記者と選手と言うことでそれ以上でもそれ以下でもないということが発表された。それが嘘か本当かは確かめてはいない。すでに既婚者の風祭だが、まだ心のどこかでは柔に気持ちがある。女性で唯一自分に落とせなかった女性がこんな三流新聞の三流記者に取られたとなると、プライドがズタボロになる。それだけは避けたい。
「今度、本を出そうと思ってるんだ」
「本ですか? 何の?」
「柔さんのことを書いた本で、本人にも許可は貰ってて原稿もほぼ出来上がってる」
「本人って柔さんに会ったんですか?」
「え? いや、電話だよ」
「あーそうですよね。松田さんは忙しくて東京には戻れませんし、柔さんがわざわざNYに行く理由もありませんしね」
「そうそう。それで、柔さんのことを書くにあたってどうしても避けて通れないのが、二人のことなんだ」
「さやかさんはともかく、僕は書かなくてもいいでしょう」
「そう言うわけにはいかない。柔さんの名前を一気に広めるきっかけは、お前を投げたことなんだからな」
蘇る記憶。さやかのコーチに就任して、ライバルの柔が風祭が敬愛する猪熊滋悟郎の孫だと知って偵察していたのだ。柔は柔道の気配など感じさせないまま風祭と会っていたが、それにしびれを切らせた風祭が猪熊家に忍び込んだところを柔に投げ飛ばされそれを耕作と鴨田がスクープしたのだ。
このことで柔の名前は一気に広まった。
「それはあまり書いて欲しくない出来事です。出来る事なら記憶からも消したい」
「油断してたんだし、相手があの柔さんだ。仕方ないだろう。俺も何回か投げられたことあるよ」
「あなたはいいでしょうけど、僕は一応有段者でさやかさんのコーチなのだし」
「でも、書かないで出版するとそれはそれでかっこ悪いぞ。誰が見てもそっちが圧力かけたってわかるからな。それなら快く本に載せて懐の大きさを見せた方がいいんじゃないのか」
「それもそうですが、写真は載せないでくださいね」
「ああ、わかった。それでそのことも含めて、原稿を抜粋して持って来てる。二人のことを書いたところだけな。目を通して問題がなければこの紙にサインをして送ってくれないか」
耕作は一枚の書類を見せた。承諾書と書かれたその紙の最後にはサインをする場所があいている。
「用意周到ですね。後から訴えられないようにですか?」
「そりゃそうさ。怖いのは主にさやかお嬢様だからな。後から難癖つけてきたら俺は勝てるわけがない」
「優秀な弁護士が本阿弥には付いてますからね」
「まあな。だからこそのこの承諾書だ」
「二枚ありますけど」
「そりゃ、おまえのとさやかのだよ」
「僕もですか?」
「当たり前だろう。問題がありそうな部分は訂正してもいいぞ。でも、そのように書き換えるかは保証しない。書かないってこともあるからな」
「わかりました……さやかさんには僕から話しておきましょう。以上ですか?」
「ああ、用事はこれだけ。よろしく頼むな」
耕作は鞄から原稿の入った封筒を取り出しテーブルに置いて席を立つ。耕作の影が風祭の視界を暗くする。そして引き留めるでもなく、ただ思わず声が出た。
「柔さんとは、どうなんですか?」
耕作は一瞬固まるが、直ぐに平静を取り戻す。向き合っていたら誤魔化せなかったかもしれない。
「どうって、どうもないさ。見ただろう、新聞の謝罪記事」
「しかし、二人して出て行ったじゃないですか?」
「いや、あれはむしろお前のせいだろう。俺を暴漢呼ばわりして混乱させて、柔さんは俺が飛行機に乗れるように自分を盾にしてくれたんだ」
「何でそこまでするんですか」
「それは……本人に聞けよ。俺にはわからない」
「いいんですか? 日本で柔さんに会いに行きますよ」
「俺の許可がいるか?」
「二人の関係次第ですけど」
「関係はないよ。今まで通りさ。いや、今までよりも遠いだろうな」
その言葉に風祭は笑顔になる。この二人は何もないと確信したのだ。柔がこんな男を好きになるわけがないとホッと胸を降ろす。
「じゃあ、忙しいところ悪かったな。あれ、伝票は?」
「そんなものありませんよ。支払いはいいですから」
「そういうわけには……」
「いいんですよ。スイートの宿泊客は無料です」
「あ、そ。じゃ、早めに頼むな」
風祭はどこか雰囲気の変わった耕作の背中を見送り、部屋に戻る。もちろんコーヒーが無料なわけがないがこんなところで言い合っているのもかっこ悪いので嘘をついた。
◇…*…★…*…◇
「どなたとお話しなさっていたの?」
「言いませんでしたか? 松田さんですよ」
「松田さん? あの記者の?」
「ええ、今はNYにいるんです」
「どうりで最近見かけないと思いましたわ」
「ええ、日刊エヴリーの柔道記事も随分大人しいですし」
「私の記事はもっと派手にしていただいてもよろしいのに。みなさん遠慮していますわね。それで、その松田さんが何のご用だったのかしら?」
風祭は本の出版についてとその承諾書のことをさやかに話す。さやかは思いの外、穏やかにそのことを聞いていた。
「またあの人は物好きなことで。どうせ書くなら私のことを書けばよろしいのに」
「さやかさんのことを書くには松田さんじゃ腕が足りないかと。もっと一流の書き手がさやかさんのことを書きたがっていますよ」
「それもそうね。日本に戻ったら自伝出版の準備をしましょう。徳永! 徳永!」
「なんでございましょう」
「日本の大手出版社に連絡しなさい。私のことを書くことが出来るほど腕のいい作家を見つけて、私の華麗なる半生を書かせてあげますと」
「かしこまりました」
さやかに長年仕えている老人の徳永は今も従順だ。時にはそのわがままに困惑することもあるが、基本的にさやかの言うこともすることも否定はしない。それが非常識なことであっても。
「それでサーヤ、原稿のチェックと承諾書なんですが」
「原稿は読む必要はありません。承諾書にはサインします」
「内容の確認はしなくても?」
「ええ、必要ありませんわ」
風祭はさやかの真意を見抜いていた。なんだかんだ言ってもさやかと耕作も付き合いは長い。さやかと言い合える記者は耕作くらいしかいない。それをさやかは許しているし、不快に思ってもいない。それは耕作を認めているということ。自分に耳痛いことを言う人を排除するほどさやかは愚かではない。
さやかは承諾書にサインをして、もうこのことに興味を失ったかのようにディナーに着て行く服選びに取り掛かった。そして風祭もサッと内容を見るとサインをして直ぐにフロントに郵送の手配をした。仕事は早く片づける。それが一流というものだ。