世界選手権の合宿を終えると、柔はいつも通り英会話スクールへと向かった。いつもは会社帰りに行くのだが今日は合宿帰りだ。日時変更の連絡をしていたので、体が辛くても行くしかない。それにカナダに行ってからというもの、早く英語を話せるようになりたいという気持ちが強くなった。
「ハイ!ヤワラ」
「こんばんは、パトリック。今日もよろしく」
「こちらこそ。おや、今日はあの上司はいないのかい?」
「ええ、日時を変更したので」
「そうかい。そりゃいい」
レッスンはいつもよりも軽快なリズムで進む。一人と言うのもあるが、カナダで英語を聞いていたこともあってパトリックの英語がすんなり入ってくる。ただ、理解するのに時間はかかるが。
1時間のレッスンを終えると、柔はいつも通りパトリックに食事に誘われる。いつもなら断るのだが、もう少し英語を話したいと思ったので承諾したが食事ではなくお茶に行くことになった。試合前だからあまり好きに食べられないのだ。
スクールの近くにあるオシャレなカフェに二人は入った。照明はやや暗いが雰囲気のいい店だ。コーヒーの香りが店中に流れていて、とても心地い空間になっている。当然、二人もコーヒーを注文した。
「ヤワラ、随分英語が上手になりました。何かあったのですか?」
「カナダに行ってました」
「それはいい経験です。常に英語のある場所に行くと耳が馴染んでよく聞き取れるようになります」
「それでもパトリックみたいにゆっくり話してくれないと、何言ってるのかわからなかったです」
「その内きっと聞き取れるようになりますよ」
「そうなればいいけど」
「カナダへは観光で?」
「友達に会いに行ったんです。ジョディ・ロックウェルって知ってますか?」
「もちろん!バルセロナの決勝戦は忘れることが出来ない位、素晴らしい試合でした。でも、ジョディは引退を表明しましたね。世界中が驚きました」
「あたしもです。でも、ジョディは元気だったし引退後の人生を考えての決断だからあたしはいい判断だったかと思います」
パトリックはニコニコしながら柔を見ていた。
「いい旅だったんですね」
「ええ!ナイアガラの滝を見ました。見たことありますか?」
「そりゃあね。僕はNY出身なんだよ」
「そうなんですか!今度NYに行くときには美味しいお店教えてくださいね」
「行く予定でも?」
「はっきりした日付は決まってないですけど、今年中には行きたいなと」
「NYは冬も美しいからね」
「そうですね。ロックフェラーのツリーは綺麗でした」
「見たのかい?」
「ええ、去年見ました」
「だったら今度は春か夏に行くのもいいね。セントラルパークで散歩したり、買い物したり」
「考えるだけで楽しみです」
「誰かと一緒に行くのかい?」
柔は一瞬間を置く。
「そうですね、友達か母か……一人旅もいいですね」
「恋人はいないのですか?」
「いませんよ」
「そうは見えませんが。穏やかな目で遠くを見ているようです。その視線の先には誰がいるのでしょうか?」
「パトリック……誰にだって言いたくないことはあるわ。大切な人が全て恋人とは限らないし、会いたくても会えないこともある。女が言わないことを聞き出すのはスマートじゃないわ」
「そうだね。失礼をしてしまった」
「いいえ、こちらこそすみません。ではそろそろ帰ります。ありがとう」
柔は席を立った。パトリックは少し強引なところもあるが人間的に悪いようには感じない。レッスン中のような会話をしてくれたことには感謝をしていたが、やはり柔のことを色々聞きたいと思う気持ちは止められないのかもしれない。恋人のことさえ聞かれなければもう少し話していたかった。英語のレッスンにもなるし。
パトリックは駅まで送ると言ったが、駅までも何も駅はもう目の前。ちょっと裏通りのような場所にはあるが、危険を感じるような場所でもないからと断られた。この後、授業さえなければ一緒に駅に行ってもう少し話もできたのだが。
スクールに戻ったパトリックは日本人スタッフに迎えられ、次の授業についてのことを少し話した。彼女は優秀で英語も話せるが、殆ど表には出てこない。入会説明の時と困った時くらい。ここでは出来るだけネイティブな人が表に立ち、レッスンをするべきだという方針がある。日本人スタッフは極限まで少なくすることで、ここをアメリカやイギリスのような場所として欲しいのだ。
「話しは出来たの?随分、早かったけど」
「地雷を踏んだのかも。恋人のことを聞いたらあっさり帰っちゃったよ」
「そりゃそうね。彼女、有名人だからそういう話題は避けるのよ」
「でも、いるかいないかだけでも知りたいよ。大切な人が恋人とは限らないとか、会いたくても会えないとかってまるで詩人のようじゃないか」
「そんなこと言ったの?」
「ああ。でも、他言しないでくれよ」
「もちろん……」