NYの夜明けはまだ少し先。空は暗いはずなのに、地上からの光が雲に反射して少し明るく見える。夏の暑さも息を潜めはじめる9月末。朝は少し冷える。
受話器を置いて机の原稿に目を落とす。柔のことを書いた原稿はまだ完全とは言えない。書きたいことも知りたいこともありすぎて、書き進めることが出来ない。手書きの原稿は束になっているものと、丸めて捨てられているものとでごった返している。柔と話したことで少し整理がつき再びペンを取ろうとしたとき、背後から声がした。
「んん~さむ~」
長い赤髪がベッドからムクリと起き上がる。
「そんな格好で寝てるからだろう。起きたんなら家に帰れよ」
「そんなつれないこと言わないでよ、コーサク」
埃っぽいベッドから飛び出してきたジェシーは耕作に抱き着く。肌寒い朝なのに限りなく薄着で無防備だ。
「私たちの関係ってそんなドライなものだったかしら?あんなに熱い夜を過ごしたって言うのに……」
耕作はペンを置くことも無く、冷静に口を開く。
「確かに暑かったな。先月のイリノイ州での試合は」
「もーノリ悪いな。ところでさっき、誰と電話してたの?」
「日本の知り合いだよ。時差の関係でこんな時間にしか電話出来ないんだ」
「ふーん、不便ね。でも会話の中で何度か『ヤワラ』って出てたわね。やっぱり世界選手権のことを話していたの?」
「そうだよ。明日にはハミルトンに行くからな」
ジェシーは脱ぎ捨てていた上着を着るとやや不満そうな顔をした。
「どうして私は行けないの?世界選手権楽しみにしてたのに」
「仕方ないだろう。今回は日本からカメラマンが来ることが決まったんだ」
「私の写真、結構いいと思うんだけどな。日本での評判はどうなのかしら?」
「悪くはないと思うぞ。ただ、柔道に関しては実績あるカメラマンが必要なんだ。新聞の一面を飾るんだからな」
「確定事項なのね?」
「ああ。猪熊柔が優勝するのは決定だよ」
ジェシーはそうじゃないって思いながらツッコむこともせず、淡々と身支度を整える。
「今回は諦めるわ。私は柔道は初心者だし、上手く撮れる自信もないもの。それにコーサクからの頼まれごともあるしね」
耕作の手が止まる。そして椅子をくるりと回し、ジェシーを見た。
「面倒なこと頼んですまない」
「いいのよ。あなたに恩を売っておけば、後で何かと役立つと思うし」
「俺には何の力もないよ」
「それでもきっと助けてくれるわ。コーサクは優しいから」
「そんなことないさ」
「じゃあ、帰るわ」
「写真ありがとう」
ジェシーは手を振って出て行った。鍵を閉めて再び机に向かうと、外からバイクの音がして走り去っていった。ジェシーは単独の移動の時はバイクを使う。日本ではバイクで行動していた耕作は懐かしそうにその音を聞く。バイクには何度も柔を後ろに乗せた。取材陣が学校に押し寄せてパニックになっているとき、葉山に行ったとき、初めての全日本の後に武蔵山高校柔道部の試合に行くとき、羽田空港から武道館への行ったとき、そして柔の不敗神話が途絶え不戦敗が決まった体重別選手権の日に一緒に行った遊園地にも行った。
懐かしい思いでは耕作の口元を緩める。頬杖をついてペンを走らせるが、この思い出は本に載せるかはわからない。大きく「保留」と書いてまた束の上に乗った。