耕作は頭を掻きながら自宅アパートに向けて歩き出す。初めからこうしておけばよかったのだが、耕作の心には迷いがあった。恋人になって3ヶ月。空港で別れたきりで、たまに電話をしたり手紙を書いたりしただけ。恋人という雰囲気は今もって感じられない。
高校生の頃から六年間、記者として傍にいた。男として見てくれたのがいつからだったのか聞いたことはない。しかし、休みを使って会いに来てくれる柔は本当に自分を好きでいてくれるんだと思うと胸がいっぱいになる。恋人になったからと言って直ぐに恋人らしく振舞えるほど器用じゃない。そんな感じで理性が試される密室に一緒にいるのはあまりに過酷であまりに残酷なことだと耕作は肩を落とす。
その後ろを歩く柔。耕作の背中が僅かに困っているのを感じながらも、アメリカにいる間は離れていたくないというのが正直なところで、ホテルも取れてないならそれもそれでいいかと簡単に考えていた。柔は耕作を困らせるのがきっと好きなのだ。その間だけ、耕作は柔のことだけ心配し、優しくして、見てくれているから。無意識にやってきたこの行動をズルいという人もいるだろうが、柔がこんなことをするのは耕作だけ。それだけ自分を見て欲しいと思っているのだ。
「松田さん、荷物……」
どんどん歩いて行く耕作は駐車場を通り過ぎて行ってしまった。荷物はまだ車のトランクの中。さすがにこれがないと困る。
「あ、ああ。そうだった」
不機嫌と言うわけじゃないが、気がそぞろだ。柔のことを考えているのか、それとも別のことか。いつもまっすぐ見てくれる耕作ではない気がした。本当に迷惑なのかもしてないと思ったら、胸が苦しくなった。
「松田さん、迷惑ならあたし……」
「迷惑なんて思ってないよ。これっぽちも」
顔は笑っている。でも、曖昧な笑顔。柔には耕作の心の内が見えない。
耕作も柔の真意が見えない。選手と記者という関係性しかなかった今までとは明らかに変わったはずの今の状態。耕作の部屋に泊まるということが何を意味するのか柔は分かっているのだろうか。大人の男女が一つ屋根の下で眠るという現実を柔はどう考えているのだろうか。
アパートに入口の前は少し階段になっており、上るとドアがありエントランスがあった。右側のエレベーターは少し古く大きな音を立てながら降りてきた。二人は会話もなくただ待っていた。緊張のような張りつめた空気が二人にはあった。
キンッという機械音がしてドアが開く。大人が五人も入れば窮屈になりそうな狭い箱の中は、二人の距離を縮めたが十秒もしない内に七階まで上がり切った。エレベーターを降りて廊下を右方向に歩く。廊下の電気は付いていたけど、さほど明るくない。正面には小さな窓があったが、夜のためか何も見えない。一番奥の部屋まで行くと耕作は鍵を取り出す。重い鉄のドアを開けると、声も出ないほど散らかった室内が目に入ってきた。
「ごめん、ちょっと待っ……」
「何言ってるんですか!? こんなに散らかっててちょっとで済むわけないじゃないですか。二人がかりで片づけますよ!」
「いや、その……」
「なにか問題でも?」
「いえ、ないです……」
柔の想像をはるかに超えていた。きっとアメリカに来てから一度だって掃除なんてしたことないだろう。それ程、物が散乱し汚れとゴミがたまっていた。
柔はとりあえず荷物を部屋の隅の方に置き、ゴミ袋を受け取ると明らかなゴミから袋に詰めはじめた。レトルトやインスタントの空き箱やテイクアウトの容器など匂いの発生源ともいえるものは即刻ビニール袋に封印した。その間に耕作は仕事で必要なものなどを仕分けし、別の部屋に移動させた。
足元の掃除が終わるとキッチンに溜まった食器を洗い、シンクとコンロを磨いた。とてつもなく汚れていたが、とりあえずサッと取れる汚れだけ除去した。時間はあまりかけられない。まだ玄関入ってすぐのキッチンだけしか掃除してないのだから。この後、奥にあるリビングを片付けないとコーヒーだって飲むこともできないのだから。
黙々と片づける柔。耕作の部屋が汚いことは分かっていたし、そんなことで驚いたりはしない。ただ、ちょっとは期待した。以前みたいに突然来たわけじゃない。予告していたのだから、少しは掃除して迎えてくれるんじゃないかと。でも実際は違って、柔はこのアパートに来ること自体歓迎されているようではなかった。それは、恋人として見られていないということなのだろうか。
黙って掃除している柔に声も掛けられず、仕事で使うものを二つあるベッドルームの内の片方に運んでいく耕作。
このアパートは日刊エヴリーのオフィスも兼ねているので少し広い間取りになっている。玄関ドアを開けると左側にキッチンがあるが、リビングダイニングも同じなので見渡せるようになっている。キッチンの横にはバスルームがあり、リビングの左右に部屋がある。左側の部屋はアパートの端なので窓が二つありそこをベッドルームにしている。右側にもベッドがあるがそちらは仕事部屋兼資料室のようになっていて、書類が山積みされている。この部屋のベッドが使えれば問題ないのだが、長年使ってない上に物が乗っている。耕作の前任者もその前任者もベッドとして使用していなかったのは直ぐにわかった。
「ここは書斎? ですか?」
「いや、仕事部屋みたいなものだよ。資料とか地図とか色々置いてある」
「あ! また貼ってるんですか!?」
柔の視線の先には日本の耕作の部屋にも貼ってあった、柔がひったくり犯を巴投げした時の写真のポスターだ。下着が丸見えで恥ずかしい事この上ないのだが、今更騒いでも仕方がない。でも、部屋に飾るセンスはわからない。
「これは俺の原点というか、原動力みたいなものだからな」
「誰か来たときははがしてくださいね」
「顔写ってないからわからないよ」
「そういうことじゃないんです! どうせ貼るならもっといい写真がよかったわ」
「俺は柔道してる柔さんがいいけどな。これなんてあの時の感動がよみがえるようだろう」
バルセロナ五輪の無差別級決勝でジョディを一本背負いしている写真を指差した。
「それはそうですけど……」
何か腑に落ちない柔に耕作は呟いた。
「これから増やしていけばいいよ」
「何をですか?」
「二人の写真を」
照れ臭そうに言う耕作の柔は胸がキュンとなる。
埃っぽい仕事部屋を出ると柔はリビングの片づけに着手した。どんどん袋詰めされたゴミはキッチンの隅に寄せられていつ捨てにいってもいいようになっていた。耕作は柔を信用していたので、そのゴミ袋をチェックすることなくアパートの外にあるゴミコンテナに捨てに行った。何往復かして部屋に戻ると冷たい風が吹き抜け、まるで部屋そのものが変わったように綺麗に片づけられていた。
「これが本当に俺の部屋か?」
「それ、前にも二回言ってますよ」
「そうだったな。君が高校生の時と……」
この時、二人して思い出したのは同じ場面。一昨年の全日本選手権、柔を武道館まで送って行った耕作はバイクで転倒し骨折した。責任を感じた柔は後日、耕作のアパートを訪れたのだが、柔の突然の訪問に驚いた耕作は不自由な足のことを忘れて思い切りドアから飛び出し、柔に抱き着いてしまった。さらに足元に落ちたリンゴのせいで耕作はさらに体制を崩し、柔の胸に顔を埋めてしまう。しかし焦りと足の踏ん張りのきかないことにより、ついには柔を押し倒してしまうという失態を犯していた。しかも隣人に見られる始末。
「あははっ、あの時はまいったよな。お隣さんも助けてくれないし、何とか立ち上がれたけど……」
「ホント、そうですよ。でもあの後、楽しかったな」
柔は思い出す。食事を作って合間に掃除もして、柔道の話もしたけどそれ以外の話も沢山して一緒にご飯も食べて、そして……
耕作も思い出していた。柔が言った「泊まって行っちゃおうかな」の後、「本当に泊まっていくか?」と冗談半分、本気半分で言ってみた。あの時、柔は何を言おうとしたのか。聞いてみたいと思っていた。でも、その機会を完全に失い今に至る。耕作は柔の表情を伺うが、ちょっとむくれたような表情になっており聞くのは今じゃないなと言葉を飲み込んだ。
柔は耕作が「本当に泊まっていくか?」と言われた直後、邦子がお泊りセットを持って入ってきたところを思い出した。あの当時、耕作と邦子は恋人同士なのだと思っていた。半信半疑ではあったが、お泊りセットを持ってくる辺りそういう関係なのだろうとその時は思った。ついさっき「泊まっていくか?」と言ったのに彼女がいるのになんて不潔なのだろうと思った。
しかし、それでも柔の中で耕作と邦子が恋人同士であるイメージが浮かばなかった。邦子は幾度となく柔を牽制しに来たが、耕作は変わらなかった。恋愛には鈍感な柔は自分のカンを信じられなかった。なぜなら、富士子と花園の関係すら全く気付かなかったのだから。
「柔さん?」
耕作の声で我に返る。
「え?」
「夕食にしようか? さっき買ってきた」