「俺も会って見たかったです。病気とは言え早すぎる死ですね。まだお若かったでしょう」
「ええ。もっと柔と一緒にいて欲しかったですね。60歳で亡くなったのはとても残念です」
「え? 60歳ですか?」
「ええ、カネコさんはお義父さんよりも年上なんですよ」
「そう言えば、仏壇に写真があるのを見たことがあります。結構お年を召した方だと思った記憶が……」
「苦労されましたから。戦前も戦後も。虎滋郎さんの前にも子供がいたそうですが、流産したことがあってようやく授かった子だと言って大切に育てていたようです」
そう言って穏やかに微笑む玉緒に耕作は気づく。
「きっと玉緒さんだから安心したんでしょうね。猪熊の血を引く二人の男を玉緒さんなら広い心で支えてくれると思ったんじゃないでしょうか。実際にそうですし」
「私なんて沢山わがままをさせていただいて、感謝申し上げたい気持ちです。カネコさんもお義父さんも虎滋郎さんも柔にも」
「そんなこと気にすることはないぞ」
バルコニーから虎滋郎が戻ってきた。お菓子の袋が空っぽで暇になったのだろう。
「お前は十分すぎるほどよくやっている。柔の精神的支えになり、親父の暴走を止めてもいる。料理上手で強いいい妻だ」
「虎滋郎さん……」
玉緒は恥ずかしさに堪り兼ねて洗面所の方へ走って行った。夫婦だけど離れていた期間が長すぎて、その想いは色あせることはなかった。むしろ恋人期間もなく結婚したことで今、恋人期間をやり直しているような新鮮な感覚を味わっているようだった。
「ところで松田くん、君は女子柔道の歴史を知っているか?」
突然の話題変更に耕作は戸惑いながらも答える。
「1978年に初めて全日本女子柔道選手権が開催されていますね。今の体重別に相当する試合です。それ以前は、試合と言うほどの試合はされていないようでしたが」
「その通りだ。78年と言ったら柔が9歳の時だ。そんな時に日本の女子柔道はやっと産声を上げたと言っていい。諸外国はその頃、とっくに試合をしていたし80年には世界選手権も開かれている。かつて日本の女子柔道は今のような戦う武術ではなく、形の美しさと力強さに重きを置いた勝ち負けのないダンスのようなものだったのだよ。日本の女子柔道界は長年その流れの中にいて、男子柔道のような稽古も試合もないままだった。しかし女子の中でも時代と共に考えが変わり、やっと78年に公式な試合をすることができたんだ」
「たった15年前なんですよね。でも、そうなると柔さんが物心つく前から柔道の稽古をしていたのは異例中の異例なのでは?」
「そうだ。しかし、俺の母親もその異例の中にいた。道場をやっていた祖父の元、母は男子柔道を教えられていた。もちろん試合するわけでも、誰かに教えるわけでもないが見事な技を掛けられたと親父は言っていた。親父は女性が柔道をすることに対して、何の違和感も反発も偏見も持ってなかった。むしろ美しいとさえ思っていただろう。だから柔が生まれて女の子だと知ってとても喜んでいたし、柔道を教えることにためらいもなかった」
「万が一、柔道界の流れが変わらず試合をする機会が無かったらどうするつもりだったと思いますか?」
「そうだな、きっと海外に連れて行っても試合に出しただろうな。だが時代の流れは確実に女性にも目を向け始めていた。86年には男女雇用機会均等法まで施行されたんだ。外国に比べて遅いくらいだが、ソウル五輪で公開競技になったらさすがに日本だって重い腰を上げただろう。日本が発祥の武道なのだから」
「柔さんが幼い時から柔道をやっていることを誰にも言わないでいたのは、滋悟郎さんに口止めされていたこともあったけど、時代の流れもあったということですね。女子が柔道をやること自体偏見があった可能性があるということですね。じゃあ、玉緒さんは娘の柔道に反対はされなかったのでしょうか?」
「本人に聞いてみたらいいさ」
玉緒は平静を取り戻して変わらぬ笑顔で現れた。
「柔が柔道することに私は一度だって反対したことありませんよ。だって私は柔道が大好きですから。柔道をやっている虎滋郎さんは誰よりもかっこよかった。娘だけどその凛とした美しさは武道の中で手に入れられると思っていましたから」
明るく笑う玉緒はとても可愛く、柔によく似ていた。柔が年を取ったらこんな風になるのかと思うと何だかうれしくなる。
「しかしこれから女子柔道界は変革の時を迎えるだろう」
「どういうことですか?」
「花園、ロックウェル、テレシコワが引退し柔のライバルとして残ったのは本阿弥くらいだ。新しい選手は出てきてはいるが、柔のレベルまでの選手は国内外でもそうはいない」
「マルソーはどうですか? 虎滋郎さんが鍛えているし、今回の世界選手権にも出場していますよね」
「彼女は元々柔のコピーとして鍛えた選手だ。本阿弥の練習相手として柔のようなスピード、バネ、技のかけ方などを徹底的に仕込んだがバルセロナでは柔に負けてその格の違いを思い知ったようだった」
「経験不足と天性の判断力の差ということですね」
「ああ。悪い選手では決してない。柔がいない時代ならば彼女も金メダルを取れただろうが、凡人たる彼女はよほどの強運に恵まれない限りは柔を越えることはないだろう」
「なら、さやかに期待するしかないということでしょうか?」
「本阿弥はあらゆるスポーツの才能に恵まれ、頂点に君臨してきたプライドを捨て去ってからは本当に強くなった。本阿弥は努力の達人だ。柔に勝つためならどんな苦しい稽古も文句を言いながらもこなしてきた。正々堂々と戦って勝つのが彼女の流儀なのだろう。ただ、本阿弥は柔道を楽しんでいるのではなく、柔を倒すという目的のみで柔道をしている。だからそれが果たされれば本阿弥はあっさりやめてしまうだろう。執着がないのだよ」
「でも、勝てるかどうかは運次第なんですよね」
「そうだ。今もきっと稽古をしているだろう。柔と倒すという目的のために。次に戦うことがあれば結果がどうなるか正直わからない。本阿弥も去年とは気持ちが違うだろうから」
「気持ちが違うとは?」