vol.1 鶴亀トラベルの柔応援ツアー
1993年9月30日から10月3日までカナダのハミルトンで柔道の世界選手権が開かれた。バルセロナ五輪後初めての世界選手権。柔の二階級制覇も記憶に新しく、柔の試合を一目見ようと世界中からマスコミやファンが押し寄せハミルトンは今までにないほどの賑わいを見せている。
柔の出場する無差別級は最終日。それまでは日本選手の応援と自分の調整に入る。マスコミもほぼシャットアウトで柔と耕作の接点はほぼない。でも、近くにいることが分かっているので、それだけで力になる。
軽量級から試合は開始され、日本選手も随分健闘しメダル数はどの国よりも多く獲得した。残すは無差別級のみ。否応もなく期待が高まる。
その試合の前日。ハミルトンのホテルに鶴亀トラベルの羽衣はいた。
「みなさん、昨日からのカナダ観光お疲れ様でした。本日はこのホテルでお休みいただきます。そして明日はいよいよ猪熊柔の無差別級試合観戦となります。全力で応援するためにも本日は無理なさらないようにしてください」
羽衣は「猪熊柔応援ツアー」の添乗員をしている。不景気となった今、旅行業界は大打撃を受けているが、このツアーは大人気で申し込みが殺到した。しかし数に限りがあるため、ここにいるのは運のいい客と言うことになる。
「柔ちゃんに激励したいのだけど会えないの?」
ブランドの服と大きな宝石を付けた中年の女性が羽衣に言う。
「申し訳ありません。試合前は精神集中のためできませんが、試合後にツアー参加者様のための時間をご用意してますのでご容赦ください」
「仕方ないわね。我慢しますわ」
苦笑いの羽衣はツアー客にホテルの鍵を渡し、一旦解散となる。ふーっと一息ついていると、再び声を掛けられた。
「困りましたね。ああいう俄かファンは、試合と言うものを分かっていない」
「西野さまほどの柔道ファンばかりだとこちらも助かるんですけども……」
「僕はそんなでもないですけど、試合前は遠慮するものでしょう」
ツアー客は大体数人で参加するものだが、この西野は単独で参加している。長身で眼鏡を掛けて色白で一見不健康そうにも見えるが、肌つやはよく感じのいい客だ。それにバルセロなの時も参加していて、羽衣もよく覚えていた。
「夕食までは自由時間なのですよね? この辺りに観光地はありますか?」
「そうですね。バスで一時間ほど行くと有名なナイアガラの滝があります。時間的に厳しいですが、行ってみるのもいいかもしれませんよ」
「それはいいこと聞きました。市内観光よりもそちらの方が興味あります」
「ではバスのこととか聞いてみましょう」
「いえ、それには及びません。僕が勝手に行くんで自分で何とかします。これも旅の醍醐味ですから」
「そうですか。西野さまは英語も堪能でしたから心配ないでしょうが、もし何かありましたらホテルか鶴亀トラベルのカナダ支店の方までご連絡を」
「ええ、ありがとう。では、一度部屋に行ってから出ていきます。お疲れ様でした」
軽く会釈をして西野はエレベーターに乗った。羽衣は今度こそひと息ついて、ソファにドカッと腰かけた。ツアーの本番は明日なのに、わがままな客の相手でへとへとだ。バルセロナの時はもう少しマシだったが、今はお金と時間があるのはこういう俄かファンの金持ちくらいだ。
「試合後に会ってもらうのも申し訳ないな」
鶴亀トラベルの社員の柔は自分の名前でツアーが組まれ、その最大の売りが試合後のグリーティングであることも承知している。柔は会社には多くのわがままを聞いてもらった。恩返しがしたいと思っているしこんなことくらいならと快諾した。しかし、今回何かあればそれも考えなくてはいけないなと羽衣は窓の向こうの青い空を見ながら考えていた。
新キャラ登場しました。
「西野」です。柔のファンです。