「猪熊さん?」
柔は振り向くとそこには今から4時間ほど前に会った、ツアー客の西野がいた。
「西野さま? こんなところで何を?」
「散歩……でしょうかね」
「こんなところを?」
見渡す限り特に目立った観光名所もない、ただの田舎の風景が広がっている。しかも今は夜でほぼ何も見えない。
「ええ、静かなところに行きたくてタクシーで適当に来たらここに。近くのレストランで食事をして散歩してたところで、日本語が聞こえたので来てみたら猪熊さんがいて驚いたよ」
それは柔も同じだ。ここには日本人がいないつもりでいた。だから安心していたのだ。
「あれ! もしかしてジョディ・ロックウェルさん?」
「ええ、夕食を一緒にとっていたんです」
「試合も観戦してたよね。ライバルであり親友って言うのは本当だったんだ」
「ええ」
「横にいるのは?」
「母です」
「それは珍しい。今回はお母様も応援に来てたんだね」
「そうです」
「あの、ここで会ったのも何かの縁。写真を一枚お願いしても?」
「はい。じゃあ、母を呼びますね」
そう言って柔は玉緒に声を掛けた。するとジョディも何事かとやって来て結局、西野を挟んで左右に柔とジョディがいるという構図で写真を撮った。シャッターを切ると同時に滋悟郎が割って入り、写真がきちんと取れたのかもわからない。
「もーおじいちゃん、邪魔しないで」
「なんぢゃ、写真撮影じゃろう。わしも……お前誰ぢゃ」
「こちら西野さまと言って世界選手権の応援に来て下さった日本の方よ」
「そうか、そうか。それはご苦労ぢゃな。だから柔言ったぢゃろ。応援してくれとるファンがお前にはいるんぢゃと」
「そんなことも言われましたね。忘れていませんよ」
「なんぢゃ……」
「西野さま、すみません。もう一枚撮りましょうか?」
柔がそう言うと西野は恐縮したようにお願いした。今度は綺麗に三人が収まった。
「ありがとうございます。では僕はホテルに戻るので」
大通りに向かって歩き出す西野。そこに行けばタクシーも捕まるだろう。
「あやつこんなところまで何しに来たんじゃ」
「散策って言ってたわ。ツアーのお客様がこんなところまで来るなんて珍しいわ」
「へー」
耕作の声がした。店から出て何か起こっていると察したが、近づくころには相手は立ち去った後。事情を聞いて耕作は少々不機嫌になる。
「そんなツアーに柔さんを巻き込んだのか。あの社長は」
「変な言い方しないでください。試合後に少しだけお話しただけです。不景気の今、旅行代理店は厳しい状態なんですよ。あたしが少しでも手助けできればそれでいいんです」
「それでもな……」
「マツダはやきもち妬いてるね」
「なにを……」
「ヤワラが他の男と話してたから、やきもちね」
「そんなこと……」
耕作はあたふたしながら否定もしないまま、期待したような目で見る柔に目をやる。
「そうだよ。楽しげに笑顔でいたからちょっと面白くなかったんだ」
その言葉に柔は満足そうに笑う。ここに両親や祖父がいなかったら直ぐにでも抱き着きたかったがさすがにやめておいた。