「この前、NYで松田さんに会いましたよ」
この場所、この状況で聞くとは思わなかった名前に柔はドキリとする。悪い事をしているわけじゃないはずなのに、後ろめいたいような気持ちが鼓動を速める。
「そうなんですね。お元気そうでしたか?」
「ええ。柔さんの本を出すから、僕やさやかさんのことを載せてもいいかと許可を取りに来ましてね」
「そうみたいですね。お仕事もあるのに大変ですよね」
「ええ、アメリカは広いですからね。取材だけでも一苦労じゃないですか。それなのに柔さんの本を書くなんて、とても僕には真似できません」
「風祭さんもお仕事大変そうじゃないですか。景気が悪くなって本阿弥グループも影響が出てるんじゃないですか?」
「どの業種も苦しいですね。今までのやり方を変えないと、得るものも得られない。力の見せ所ですよ。柔さんも柔道は順調のようですね。世界選手権の優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます。出場すら怪しかったのに、どういうわけか出れたのでホッとしました。ジョディとも会えて楽しい試合になりました」
警戒心が徐々に解け、柔は以前のように笑顔を見せた。その表情に風祭は胸を締め付けられる。本当に欲しかったものは手に入らなかった。いつもそうだと、風祭は思う。
柔道が好きで厳しい稽古にも耐えたのに、試合では緊張して力が出せずいつも負けていた。勉強は得意で誰にも負けないと自信があったが、なりたかった生徒会長にはなれなかった。壇上に上がって演説できないことが分かってたから、立候補すらしなかった。本当は自分の力を試すためにやってみたかった。なんでも器用にこなして何でも手に入れてきたと思われがちだが、本当のところは何も手に入れてないのだ。
学生の頃は親に従順だった。今はさやかに従順に生きている。それが生きるためだと思ったから。
でも、まだ手に入れることが出来る可能性が一つある。何かに従順に生きていた自分を解放すれば、手に入る。だがそれは同時に失うということなのだ。
「このホテル覚えてますか?」
「ここですか? いえ、初めてきましたけど」
「一昨年のクリスマス・イヴに僕と待ち合わせたホテルですよ」
柔が柔道をやめていた時、クリスマス・イヴとは知らずに風祭の誘いを受けたのだが、耕作の記事を読んで絶対に記者をやめて欲しくないから、約束を断って耕作のいる喫茶店に走った。あの時の風祭と待ち合わせをしたホテルはこのここだったのだ。
「行きつけのバーがここにあって、あの日は本当に楽しみにしていたんですよ。雪も降って来てロマンチックな夜になると思ってました。あの日はどうして来られなかったんですか?」
柔は言葉が出ない。とても言えるような理由じゃない。言ってはいけないと思ったのだ。
「質問を変えましょう。どうして、あの翌日から柔道を再開したんですか?」
「それは、あたしの中で柔道をする理由ができたからです」
「それは松田さん?」
柔は目を見開く。風祭は相変わらず笑顔だ。
「そんなに驚かなくていいじゃないですか。お二人は付き合っているのでしょう。もうあの頃からそうだったんですか?」
「いえ。付き合ってなんかいません。何を勘違いされているんですか」
「そんなこと言ったら松田さん怒りますよ。NYでお二人の関係は聞いています。大丈夫ですよ。誰にも言いませんから」
仮面のような笑顔は崩れない。柔はそんなことはないと知っていた。耕作から電話があって何も話してないと聞いていたから。
「風祭さんの方こそ、勘違いされてます。あたしと松田さんは何でもありません」
「そうですか。ではNYで松田さんがとても魅力的な女性と、仲睦まじそうに歩いていたことをお伝えしても問題はないですね」
「え? どういうことですか?」