「え? どういうことですか?」
柔の胸がざわつく。離れているからわからないこともある。でも彼に限ってそんなことはと、思いながら柔は松田耕作という男の何を知っていて、何を知らないのかわからない。
「松田さんと会ったその日の夜に、偶然見かけたんですよ。赤い髪の美しい人でした。あちらでも楽しくやってるんだと思いました」
「そ、それはいいことじゃないですか。日本を離れて1年以上。寂しいと思うこともあるでしょう。仲のよい友人がいても不思議じゃないです」
柔は平静を装って笑顔を見せた。動揺するところを見せたら付け込まれるかもしれない。風祭のいうことを信じてはいけない。そう胸に置きながら話す。
「友人ですか。そうしておきましょう。実を言うと、僕が柔さんと会うことは松田さん知ってるんですよ」
「そうですか。でもそれは今日ではないですよね?」
「ええ、今日ではないですが別にいつでもいいと思いますよ。今日はどういうわけかこんな風に会うことが出来た。天の導きとは思いませんか?」
「いえ……」
「柔さん。僕はどうしてもあなたに聞かなきゃいけないことがあります」
「なんでしょうか?」
「バルセロナでどうして、公園に来てくれなかったんですか? 僕は待ってました。雨に濡れてもずっと……」
今ここで聞かれるとは思ってなかったし、行かなかったことが答えだと思って欲しかった。
「もし、あなたの気持ちが僕にあるとしたら僕は全てを捨てても構わない。そうでないなら、僕はもうあなたへの気持ちを断ち切ります」
バルセロナの時と同じ顔をした。決意を込めた強い目だ。本当の風祭がいると思った。仮面を捨てた風祭が。
「あたしは風祭さんを頼りになる人だと思っています。でも、それは恋ではありません」
「そうか……そうだよね。僕はこんな風に言っても既婚者だし、絶対にさやかさんから離れられない」
永遠に籠の中の鳥となる道を選んだのだ。欲しかったのもとは違うけど、人がうらやむものを手にしている。地位も名誉も手にした。
でも、自分の力じゃない。与えられたものだ。欲しかったものはこれじゃない。
「僕は本気だった。柔さんを本気で愛してた。柔道をしている姿は美しく、普段の姿は優しくどちらも輝いていた」
「そんなこと言われても困ります。あたし、もう失礼しま……」
「待って!」
風祭は柔の腕を掴む。その手は今まで感じたことがないくらい力強い。
「離してください」
振り払おうとするが、強い力で握られて離れない。
「無理だよ。僕は今、とんでもない幸運をつかんでるんだから。おあつらえむきな状況にあるんだ。ずっとフラれ続けてきたけど、今この手を離さなければ一番欲しいものは手に入る」
「そんなことありません! あたしは……」
風祭は柔の腕を引き寄せ、胸の中に抱きしめる。そして柔は顎を上げられ、かつて恋をしていたかもしれないその人が、当時と変わらない紳士的な笑みを見せて柔は悲しくなる。
「どうして泣くんですか? 僕に幻滅しました? でも、これが僕です。色んなものを諦めて来たけど、女性だけは手に入れてきた。手に入らなかったのは柔さんだけ」
「だったらそれは愛じゃないです。手に入らなかった物への執着です。あたしを愛してるんじゃない」
「そう思っても構いません。でも、あなたは僕の腕の中にいる」
柔にははっきりとした思いがある。かつてここで待ち合わせていたクリスマス・イヴとは違う。あの時は、もう大人だったから雰囲気次第ではどうなるかわからないとさえ思っていた。それが嫌でもなかった。でも、今は……。