vol.1 松田の知らない柔
柔は早朝稽古を終えると、食事や身支度を整えて出勤する。身支度の合間に日刊エヴリーのアメリカスポーツコーナーには目を通す。そして記事の最後の「松田耕作」の文字を見て、一日のエネルギーを貰うのだ。
アメリカスポーツのコーナーは元々そんなに大きく誌面を使ってはいなかったが、耕作の記事の面白さからだんだん大きくなり最近は写真までついて掲載される。記事が認められた結果なのだが、仕事が忙しくなると電話も少なくなり最近はあまり声すら聞いていない。話したいことが沢山あるのだが、NYと日本じゃ時差もあり思うようにはいかない。
午前中は神保町支店で仕事をする。羽衣にあいさつをすると、毎朝必ず耕作の記事の話になり盛り上がる。羽衣も相変わらず耕作のファンなのだ。
「松田記者にはやっぱり柔道の記事を書いて欲しいな。いや、アメリカのスポーツのこともよくわかるし、勢いもあるんだけどね。やっぱり柔道に向ける思いはより大きいと思うよ。そう思わないかい?」
「え? ええ、そうですね。でも、この前久しぶりに世界選手権の記事を書いてくれましたよね」
「あれは、熱かった。久々に素晴らしい記事を読んだよ。あの新聞はまだ残してるくらいだ」
「そうなんですね」
「しかし、ハミルトンに松田記者がいたのなら是非あいさつしたかったな。猪熊くんは会ったのかい?」
「はい。でも、課長。以前、紹介しようとしたとき『あいさつなんかいい』って言ってたじゃないですか」
「あの時はだね。松田記者がゴシップ記者だと思ってたからね……ってそんなことはいいんだ。午後はまた本社ビルでトレーニングだろ。それまでにここの仕事は終えるように」
羽衣は席を立った。柔道部やその関係の仕事は熱心だし、成果も出すが他は相変わらずだ、本人はやる気をだしているようだが、結果は急には出ない。
午後に本社ビルでの稽古が終ると、外は暗く息も白くなっていた。それもそのはず。もう今日から12月なのだ。街はクリスマスムード全開でイルミネーションが輝く。ウキウキとした街の様子と人々の中、柔は浮かない顔で歩く。
家に帰ると玉緒が柔宛ての荷物が来ているといい、手渡した。送り主は耕作。柔は急いで部屋に持って行って開封した。
「ついに完成したんだ」
中から出てきたのは、耕作が書いた柔の本の原稿。タイトルは「YAWARA!」とあり、日本語で書かれていた。ペラペラとめくる。手書きのコピーが送られてくると思っていたが、ワープロで書かれたものだった。柔は密かに「松田さんってワープロ使えたんだ」と感心したが、ページの所々に付箋があり質問があった。書いている内に出てきた疑問や書いてもいいのかどうかの許可を求めるものだった。その中で目に留まったのは「ユーゴスラビアの世界選手権の不調」と「1991年のクリスマスからの柔道復帰」だ。どちらも耕作絡みで柔の心が動いた出来事なのだが、当の本人はそのことを知らない。
階下から玉緒の声がした。どうやら電話のようだ。急いで降りると、「松田さんからよ」と耳打ちする。柔は「うん」と曖昧に微笑む。
深呼吸をして受話器を耳に当てる。
「もしもし?」
「あ、柔さん? 今、電話大丈夫?」
「はい。あの、今日原稿届きました」
「え? 今日? そっか、もっと前に届いてると思ってたんだけど」
「そのことで電話を?」
「ああ、付箋をいくつかつけてただろう。その事について聞きたくて」
「今手元にあるんで見ますね」
「ああ、疲れてるところごめん」
「いいんですよ」
付箋があるおかげでページは直ぐにめくれる。赤い線も引いてあるし、チェックに時間はかからない。順番にこたえていく。受話器のむこう側でメモを取る音が聞こえ、遠く離れてるのに同じ作業をしている気がする。
「あと2つ。ユーゴのことと、柔道復帰についてなんだけど……」
「それは……」
「言いにくいことなのかい?」
「はい。いつか松田さんにもお話するつもりですが、今は言いたくありません。どのみち、本にも載せて欲しいことではないので……」
「そっか。それなら仕方ないな。いつか話してくれるのを待ってるよ」
「はい……」
「柔さん、どうかした? 元気がないようだけど」