「おい、柔!」
「何よ」
「玉緒さんの様子が変ぢゃ」
「え!?」
滋悟郎と柔は玉緒がいる居間へ走った。こたつに座っていたはずの玉緒は、ごろんと横になって眠っていた。普段なら絶対にありえない姿で眠っている玉緒に滋悟郎が驚いても無理はない。
しかしただ眠っているだけということもある。柔は揺さぶって起こしてみるが、全く起きる気配がない。それどころか顔は青白く手は冷たい。それに台所では料理の最中のようでコンロに火がついている。そんな状態で眠るなんてありえない。柔はただ事でない様子を察知し、立ち上がった。
「救急車呼んでくる。おじいちゃんはお母さんを見てて」
冷静でいないといけない。そう言い聞かせて柔は電話をした。コール音より心臓の音の方が大きく聞こえる。一体何がどうしてこうなったのかわからない。さっきまで元気だった。元気に見えていただけで、実はどこか悪かったのか。でも、何も気づかなかった。母親のことなのに何も気づかなかった。
電話の後、直ぐに救急車は到着し区立病院へと搬送された。柔が同行し、滋悟郎は後から駆け付けた。夜の病院は寒くて寂しい場所だ。不安ばかり煽る。
処置室のドアが開き、中に入ると医師からの説明があった。
「過労です。お母さんは随分、無理をされていたようですね」
「過労ですか……」
「安心するのは早いですよ。過労も甘く見ると取り返しがつかない事態があります。今は休養を取って、体を元に戻すことを考えた方がいいでしょう。二日は入院してください」
「はい……」
「今日は、ご家族はお帰り下さい。病院にはいられませんので、明日、またお越しください」
「玉緒さんは目が覚めるんぢゃろうな」
「ええ、大丈夫です。休養していれば、時期に目覚めるでしょう」
柔は医師にお礼を言って退室した。
猪熊家にはあまり病気の気配がない。特に滋悟郎と柔は風邪一つ引いたことがない健康体だ。玉緒に関しても、柔が知る限りでは数年に一度程度風邪を引くくらいで、大きな病気の兆候もないはずだ。
「お母さん、無理してたのかな」
帰りのタクシーの中で柔は滋悟郎に言う。
「そんな風には見えんかったがの」
「でも、知らないところで無理してたんだわ。お父さんも去年やっと見つかって、もう肩の荷が下りたと思ってたのに」
「気が緩んだだけかもしれん。医者が大丈夫だと言ってるんぢゃから、大丈夫ぢゃ」
「うん……」
その日は何もする気が起きなくて、静かな夜となった。ベッドに入っても眠れず、心配でたまらない。目を瞑ると柔は玉緒との思い出を振り返ったり、最近の様子を思い返したりした。頭の中の玉緒はいつも笑顔で、苦労を見せたことも無い。本当は大変だったに違いないのに。
柔は起き上がって、耕作の原稿を取り出した。耕作本人が一緒にいてくれれば心強いのだが、それは叶わないこと。電話を掛けて声を聞いたら、自分の心が崩れて頼ってしまう。どうしようも出来ないのに、どうにかしようとする耕作の姿が目に見える。無理をさせたら玉緒と同じことになりかねない。ただでさえ、仕事と原稿で手が一杯なのに余計なことで心配を掛けたくない。
耕作の書いた原稿を読んでいる内に、自分でも忘れていたことや知らなかったことが出てきて驚いた。特に両親や祖父母のことはわざわざ聞くようなことでもなかったので、時折玉緒が思い出話をするときに耳を傾けていたくらいだ。知らないことはまだきっとある。沢山話さなくてはいけない。誰かが話して残さなくては、思い出は消えるのだから。
原稿を頭で読む声は耕作の声に聞こえ、いつの間にか心は落ち着いていた。こんなにも想ってくれていることがわかる文章に柔は顔が熱くなる。これは発表してもいいのか。ただの思い過ごしか。柔はラブレターを貰ったような気がして、恥ずかしくなった。
机の引き出しを開ける。小さなアルバムがあってそこには耕作の写真がまとめられていた。まだ日本にいたころのものやNYで撮ったもの。落ち込んだときや寂しい時にはいつも写真を見て元気を貰った。今日も同じように見ているのに、涙が溢れてしまう。
――そばにいて欲しい……。声を聞きたい……。抱きしめて欲しい……。
叶わない願いを口にはしないが、柔は自分自身をぎゅっと抱きしめた。椅子の上で膝を抱え小さく抱きしめる。