翌日、早朝。耕作は自転車でアリシアが練習している公園に向かった。いつもいるわけじゃないが、最近はその傾向もわかって来たしアリシア自身が教えてくれることもある。
「おはよう、アリシア。調子はどう?」
「おはよう、コーサク。普通よ」
長い金髪をポニーテールにして、ジョギングをしてきたのか頬が赤くなっている。NYの冬は寒いがアリシアは夏と変わらないメニューをこなしている。
ここでこうやって稽古を見ていることも、話しかけて答えてくれるようになったのも夏ごろからだ。それまでは無視され続けていた。下手なナンパだと思っていたと、後にアリシアは言った。だが耕作はまだ自分が日本の新聞記者だと言うことは打ち明けていない。記者だと知ればもうここには来てくれないかもと思っていたからだ。
「君はどうして柔道をしてるんだい?」
「5月に会ってからずっとその質問ね。あたしは護身のためと心を磨く為に柔道をしてるの。試合に勝つためじゃないわ」
「試合に出たいとは思わない?強い相手と戦いたいとは思わない?」
「思わないわ。あたしは体を動かすのが好きでたまたま柔道に出会って、それが合っていたから続けてるの。自分のためだもの。別に試合の必要はないわ」
小柄なアリシアは太い木にゴムチューブを結ぶと、いつもと変わらず稽古を始めた。ゴムを引くたびにその目の強さが柔を思い起こされる。これだけ鍛錬をしていて実力を試してみたくないわけがない。何か理由があるのだろうか。だがアリシアはそれを決して言わないだろう。耕作は何となくわかっていた。
「ヤワラ・イノクマを知ってるか?」
ゴムの音が止まる。ふーっと吐く息が白い。アリシアは俯いていた。
「知ってるわ。世界チャンピオンだもの」
「君と同じくらいの体格で無差別級も制覇した。彼女は強いよ」
「わかってるわ。バルセロナ五輪を見てたもの。マルソー、テレシコワ、そしてジョディの試合は何度も見た。あんなに激しくてあんなに楽しそうな試合をあたしは今まで見たことがないわ」
「ああ、バルセロナは彼女にとって柔道が楽しいと思えるようになって、最初の試合だったと思う。日本でライバルのさやかに勝った時、楽しかったと言ってた。柔道を遠ざけてきた彼女が自ら望んで試合に出た。本気の試合だった」
アリシアは黙っていた。その表情は険しく手は少し震えていた。
「帰るわ」
「お、おい!」
耕作はがっくりと肩を落とす。どうして、こんなに頑固な女性ばかりがまわりにいるのだろうか。でも収穫はあった。アリシアは試合をしたいのだ。でも、そうしない理由があるのだ。それを探っていけば試合に出るきっかけになるかもしれない。
しかし、翌日の朝にアリシアの姿はなく代わりにロイドがベンチに座っていた。
「あの、おはようございます。こんなところで奇遇ですね」
「おはよう。奇遇?違いますよ。あなたを待っていたんですよ」
「俺を?」
耕作はベンチに座った。アリシア関係の話であることは明白だ。でも、ロイドとももう一度話してみたいと思っていたから好都合だ。
「アリシアに近づいた理由は何ですか?」
「唐突ですね。単なる好奇心ですよ。あなたほどの柔道家が教える人がどのくらいの腕前なのか知りたくて近づきました」
「私はそんな大した柔道家じゃないですよ。それで、わかりましたか?」
「いいえ。稽古だけでは何とも。試合に出ないのには理由があるんでしょうか?」
「ええ。アリシアは失うことを恐れているんです」
「試合に出ることが失うこと?それは負けるのが怖いということでしょうか?」
「そんな臆病者じゃないですよ。アリシアが恐れているのは、自分が負けた相手がその後二度と試合に出なくなることです。再戦できなくなることが辛いと言ってました」
「以前にもそんな経験が?」
「テニスと乗馬、水泳もやっていたそうです。しかしジュニアの国際試合でアリシアはどれも二位どまり。その上には必ずある人がいて、その人は優勝するとその競技に興味を失い引退。アリシアは再戦することも敵わず、ただ永遠の二位のままで居続けていたんです」
「それで、もう二度とそんな思いをしたくないから柔道の試合に出ないと言うことでしょうか?」
「その通りです。柔道はアリシアが幼い頃から習っていたものです。そのライバルは柔道には見向きもしなかったので、アリシアは安心していました。その頃は別の理由で試合には出ていませんでしたが、高校に入ったら試合に出てみようという気になってくれたんですが今度はあのライバルが柔道を始めたと知って試合に出ることも、柔道をやっているということも秘密にし始めたのです」
「そういうことでしたか。確かに負けっぱなしで再戦も出来ないでいるのは辛いですね。しかもあらゆる競技でそれをされたら、もうやる気すらなくなります。唯一残ったものを侵されないように守っているということも理解できなくもない。しかし……」
「勿体ないとお思いでしょうか?あなたがどうしてそこまでアリシアに拘るのかわかりませんが、あの子を試合に出すのは並大抵の努力ではできませんよ」
「でも、それがわかってよかったです。試合をしたくないわけじゃないということなら、何とかなるかもしれません。それに俺が試合をして欲しい相手は、優勝したから直ぐに引退するような卑怯者ではないですから」
「言いますね」
「そりゃね。でも、年を取れば取るほど引退する可能性は高くなる。勝ち逃げとかではなく、純粋に体力の問題で引退はありますから。できれば早くにアリシアには公式戦に出て貰ってアメリカ代表にはなって欲しいですね」
「コーサクは一体誰とアリシアを戦わせたいんだ?」
「ヤワラ・イノクマですよ」
「世界チャンピオンじゃないか!?」
「アリシアにはその実力がある。ないのは実践経験だけ。経験を積むのも早い方がいい。なるだけ多くの人と試合をしないと、得られないものもあります」
ロイドは笑う。鋼のような顔に笑い皺が浮かぶ。
「面白いですね。アリシアに試合をして欲しいと私ももちろん望んでいますが、まだそこまでとは思っていませんよ。アメリカ代表になるほどの実力なんて」
「俺には分かります。本気で取り組めば必ずアリシアは代表になれます。素質は十分です」
自信に満ち溢れた表情で耕作は言い切った。
「言いたいことは分かりました。ただ私は協力は出来ないです」
「なぜですか?自分の弟子が世界を相手に試合をして欲しいとは思いませんか?」
「アリシアは正確に言えば私の弟子ではありません。元々、アリシアを教えていた人が病気で教えられなくなり私にその依頼が来たんです。私は柔道をやりますが、試合には殆ど出たことがないので知っている人も少ない。それに今は医者をしています。専門は整形外科ですが、そんなのは言わなければわからないんです。いい目くらましなんですよ」
「前にアリシアを教えていた人とは?」
「それは言えません。言ったら私は解任されます」
まだ何か秘密がありそうだが、これ以上は聞き出せないだろう。耕作は背もたれに倒れて空を仰いだ。
「アリシアに伝えてください。話し相手くらいにはなるぞって」
ロイドはまた笑う。
「面白い人だ」