翌朝、午前8時ごろ猪熊家より徒歩20分程離れた場所にある仕出し屋「真田屋」では、お弁当と昼からの定食屋の準備に大慌てだった。それもそのはず、今年の8月にここを仕切っていた女将が急逝したことと手伝いに来ていた人が2日間も無断欠勤しているのだ。それでも弁当は作らなくてはいけないし、店も開けなくてはいけない。やることは山のようにある。
「玉緒さんはどうしたんでしょうか?」
30代後半でちょっとふくよかで気の強そうな女性がから揚げを揚げながら、先代の娘である現女将に尋ねた。
「昨日電話を掛けてみたんだけど、昼も夜もつながらなかったわ。手伝いに来るとは言って来てくれてこなかったことはないんだけどね」
「そもそもそう言う勤務条件っていいんですか? 働きたい時に働くって都合よすぎじゃないですか?」
から揚げを網で返すと、じゅわーっと音を立てた。まだもう少し揚げないと火が通らない。
「そう言わないの。玉ちゃんはね中学卒業した時からここで働いてて、途中、結婚とか出産で辞めてたけど人手が足りないって時は手伝ってくれたし、一生懸命お店のために頑張ってくれたの。それに最近は母さんが亡くなったからっていつもよりも沢山働いてもらってたのよ。こっちが申し訳ないくらいよ」
から揚げに程よく火が通って油を切るために、一旦網の上に上げた。この従業員は知らないかもしれないが、このから揚げの下味を考案したのは玉緒だ。
「それでも無断で休むのはどうかと思いますよ。何かあったにせよ家族の誰かが連絡してくるものじゃないですか?」
「玉ちゃん、ここで働いてること家族に言ってないからね」
「どういうことですか?」
「家族に心配かけたくないって家族がいない時間だけここに来てるの。それを先代は許してた。事情を知ってたからね。わたしももちろん了承してたわ」
「事情って……」
厨房の中にはこの2人を含めて5人いる。全員ここで働き出して5年以上なのでベテランなのだが、それでも事情を知らない。知っているのは女将と最年長者の2人だけだ。不満を持っていることはわからないでもないが、人の家の事情を勝手に話すことも出来ない。今は堪えて貰うしかない。
忙しさが緩んだ午前10時。定食屋ののれんはまだ中にあったが、ドアを開ける音がしたので揚げ物担当の従業員が出て行った。
「ごめんなさい。まだ開店前で……」
「あの開店前にすみません。店長さんはいらっしゃいますか?」
見たことある顔。聞いたことある声。想像より小さいしテレビで見るよりきれいだった。
「どうしたの?」
女将が奥から出てくる。そして入口にいる人の顔を見て驚いて、駆け寄る。
「玉ちゃんに何かあったの!?」
「え!? あの、女将さんですか?」
「そうよ。玉ちゃんに何かあったの? 柔ちゃんがここに来るなんて何かあったとしか思えないわ」
戸惑う柔だったが、とにかく事情を説明しなくてはいけない。
「一昨日の夜に倒れて入院しました。ご迷惑をお掛けしてすみません」
「入院って……どこか悪かったの?」
「いえ、ちょっと疲れが出たみたいで……」
女将は柔を椅子に座るように促し、コップに入った水を置いた。
「まだお茶の準備が出来てなくてごめんね」
「いえ、ありがとうございます」
「玉ちゃん、最近頑張ってたのよ。ウチの先代が8月に亡くなって、その穴を埋めようとしてたのよね。先代は80歳だったんだけど体はよく動いてね、いなくなったらもう店はてんやわんやで。でも玉ちゃんが沢山手伝ってくれたから、随分楽になったの。それに甘えてたのね」
「あたしは母がここで働いていることも知りませんでした。昨日聞かされて、事情を説明に行って欲しいと言われて初めて知ったんです」
「玉ちゃんね、虎滋郎さんが失踪してからここで少しずつ働いてお金貯めてたのよ。探しに行くようになってからも、東京に戻ってきたらここで働いてた。わたしらからすると、ずっと働いて欲しいと思ってたけど目撃情報が入ると暫く帰ってこなかったじゃない。それでしばらくして電話があって、見つからなかったからまた働きたいって言うの。一緒に働けるってことは玉ちゃんにとってはいい結果じゃなかったってことだけど、ここで働く玉ちゃんは楽しそうだったわ」
「そうだったんですね。全然、知りませんでした」
「内緒にしてたからね。心配かけたくないって言ってた。おじいさんもきっと知らないはずよ」
「そうですね……」
柔は不思議に思っていたことがあった。父親が失踪して祖父の接骨院の稼ぎだけで生活してた。それも余裕があるわけじゃない。だったら父の捜索資金はどこから出ているのだろうかと。母はこっそり働いてその資金を作っていた。そんなことも知らずに柔は生きてきたのだ。
「虎滋郎さんが見つかってからもお手伝いには来てくれてたのよ。フランスに行く資金をためなきゃって言ってた。嬉しそうでまるで少女のようだったわ」
母の秘密は母の聖域だったのかもしれない。母でも嫁でない一人の人間としていられる場所。自分の力でお金を稼いでそれを手に夫を探す。ここは自分だけの場所だったのだ。そんな場所を守りたいと思った。
「あの、あたしお邪魔じゃなければお手伝いさせてください」
「柔ちゃん?」
「母が戻ってくるまであたしがここで働きます。沢山は出来ないですけど、早朝なら出来ます。お願いします」
「あの、ちょっと待って。玉ちゃんが元気になったらここでまた働いてもらうのは構わないのよ。だから柔ちゃんが代わりに働かなくても……」
「お邪魔ですか?」
正直言うとオリンピックの金メダリストで国民栄誉賞を取った人をどう扱っていいかわからない。人手は欲しいがそんな人がここで料理をしているのも変な話じゃないか。それに彼女は柔道の練習と会社もある。
「会社と柔道の稽古はどうするんだい?」
「会社は行きます。柔道は早朝稽古を暫く取りやめます。どうせ午後から稽古があるのでいいんです」
「でもね……」
「平日は朝の6時から8時。休日はここが開店するまでの間。さすがにお店に出ることはできませんが少しでもお手伝いできればと思ってます」
「いいんじゃないですか」
揚げ物担当がそう言うと、他の3人も頷いた。
「金メダリストと一緒に働くことなんて出来る事じゃない。それに人手は本当に足りてないですよね」
「まあね。うーん……じゃあお願いしちゃおうかな。玉ちゃんのことも心配だから状況は知っておきたいし。ただし洗い場と、お弁当の盛り付けが主な仕事ね」
「はい、お願いします」
その後、ここで柔が働いていることは秘密とされ決して口外しないことをみんなが約束した。働いていることが世間に知られると、騒がれることもあるし鶴亀トラベルに見つかると面倒だ。あくまでお手伝いという位置づけだ。