「あ、そうだ。見て欲しい物があるの」
柔は部屋に走った。持ってきたのは耕作の原稿だ。
「これ、松田さんの?」
「うん。下書きみたいなものなのかな。少し読んでみてよ」
富士子と花園は2人で原稿を読み始める。ゆっくりとは読んでいられないが、花園は高校の時の一連の騒動を思い出し、富士子は短大からの4年間を振り返る。懐かしい思い出になっているこの現状に寂しささえ感じる。
「松田さんも苦労したわね。きっともっと書きたいことがあったはずなのに、この量にしなきゃいけなかったんだもの。それに本当によく猪熊さんのこと見ててくれたのね」
「そうね。あたし、松田さんがいなかったらとっくに柔道やめてたかも。これ読んでそう思ったわ」
不満そうな滋悟郎は何も言わず酒を飲む。この原稿を当然、滋悟郎も読んでいる。自分が知っていること、知らないことが沢山あった。これを柔が訂正した箇所はなく、事実だと認めなくてはいけない。滋悟郎は文字で読むことで、客観的になり自分の強引さを突き付けられたような気がしていた。だからと言って、それが間違っていたとは思っていないが。
「先生、実はご報告がありまして」
花園が姿勢を正して滋悟郎に言った。
「この春から中学校の教員に採用されました」
「おお、それはよかったではないか」
「これも先生に柔道の稽古をつけて貰って、大学で結果を出したことで目に留まったんじゃないかと思います」
「どうして?」
「体育の教師兼柔道部の顧問の空きがあったんだ。その中学に採用になったからな」
「そういうことね。よかったわね、花園くん」
「ああ、猪熊もあの時はありがとう。2人がいなかったら俺は、何もかも失っていたよ」
「そんなことはないと思うけど……」
「何にしてもわしのおかげぢゃ。お前さんじゃちと不安ぢゃが、柔道を広める活動は大いに意義のあることぢゃ。励めよ」
「はい!」
賑やかだった猪熊家も富士子たちが帰った後は、火が消えたような静寂が訪れる。夕方の茜色の空も相まって、その寂しさは柔の心にぽっかりと穴をあけたようだった。
出来るだけ考えないようにしていた。特に一人でいる時は、思い出すと涙が出ることもある。こんなにも依存していたのかと思うほど、耕作に会えない状況は柔の精神にダメージを与える。
電話で話しても辛くなる。耳に残る耕作の声は優しく、どうしてもっと早くに思いを伝えなかったのか何度も後悔した。何かと理由を付けて自分の心を省みないのは、柔の常とう手段だ。特に恋愛関係に関しては、心を偽ることになれている。それでも、柔は寂しさに押しつぶされそうになっていた。