人知の知れぬ力による殺人に、サルディニアを護るものは
一人の戦士の魂を呼び戻した。
ブローノ・ブチャラティ————死後の、そして最後の戦い。
※本作は前編(というかほぼプロローグ)になります。
残酷な描写が多々ありますので、ご容赦ください。
後編はこちら
『荒馬のように』
https://syosetu.org/novel/227743/
【1】
――――――ゆっくりと頭の上に手が置かれた。
太い骨と厚い肉と堅い皮で出来た手だった。
拳を結べば鈍器となるであろう手が、今は平手で柔らかく頭の鉢を覆っていた。
「オマエは…………どうしてそうなんだ…………?」
厳めしいが鋭くはない声――
親父は今のオレよりも背が低かったが、それでもオレには峻厳な山のような威厳を感じていた。
「…………オマエも男だ…………ケンカの一つもする…………仲間をやられたから……その復讐をする……それも男の態度だ…………だが、だからといって半殺しにした相手に刃物を持ち出す……それは…………男のすることでは……ない」
親父は学のない男だったが、若い頃から一度も喧嘩に負けたことはなかった。
絶対に自分から手は出さず、しかけてきた相手は必ずぶちのめした。オレは親父に憧れていていた。
オレが黙りこくっていると、親父は溜め息をついた。
「……知っているか……? 『石を斬った男』の話を――――――」
続けて親父はオレの名前を呼んだ――――――
――――――ポツリと、右眼の下で水滴が弾けた。
うっすらと眼を開くと、サルディニアの空に陰りが生じていた。
澄み渡った青い空。白い砂浜。翠玉の水面――そのすべてが空を覆う灰色の薄雲に覆われて、影を帯びていた。海に眼を向けると、分厚い黒雲が水平線の向こうから近づきつつあった。
黒雲と海面の間では紫電が跳ね、空気は粘りを帯び、時より吹きかかるぬるい微風は肌にまとわりつき、鼓膜は張って聞こえる音がぼやける……嵐の予兆だった。
軽く頭を振って、瞼に残る眠気の重みを払うと、黒々とした瞳を下に向けた。平たい岩の上に横たわっていたので、立ち上がると体が軋んだ――気がした。
眼下に広がるのは血風呂だ。
バラバラにした手足が転がっていた。断ち切った首が転がっていた。大量のメスが突き立てられて針山ならぬメスの山と化した胴体が転がっていた。
一見すれば
正気の人間が見れば発狂しそうな光景だった。たとえ狂わずとも、もう肉が食えなくなってもおかしくない……そんな景色だった。
「…………」
しかし、
自分にとって殺人は仕事だ――その確信があっ た。
(…………オレは…………何故ここにいる…………?)
この地がサルディニアである――知っている。
ここに目的を果たしに来た――そのことも知っている。
目的は果たされた――はず、だった。
しばらくして、
己の姿を隠す暗殺の技術を使わなくても……誰も自分を認識しない。
声を発すれば聞かせることもできるが、誰も
人のいる家屋に入ることも出来ないし、何より生きた人間に触れられると――――――
「ひッ、ひッ、ひィーッ」
断続する悲鳴が取り留めのない思考を切断した。そして、反射が
暗殺は完璧ではなかった……
「サルディニアの海は最高って聞いてたのによォォ~」
その男――生き残った男は口から大量に出血していた。
きれいに日焼けした肌に、鋳鉄の像のように滑らかな質感の筋肉。見るからにジム通いと日焼けサロンの賜物だ。まとう服はバカンス仕立てでラフだが、手首の腕時計は海に持ち込むには高級品過ぎた。顔立ちは知的だが、唇の端には嘲りの笑みを繰り返して刻まれたシワがあった。
腹這いになって進む男は、血を流しながら悪態をついた。
「イカす女どもとヤリ放題って話だからわざわざ来てやったのによォォォ~、なんでこのオレがこんな呪われた目に遭わなきゃならねえんだよォォォ~~~~ッ」
上っ面より口から出るものが人間の本質を表すというのなら、この男の吐く血が黒くないのが
酒と軽い麻薬で酩酊していたこの男たちは、地元の少女をここまで連れ込み、惨たらしい行いをしようとしていた。
ただ異国から来た金持ちの旅行者の行いに対して、抑えようのない怒りが走った。男たちは死に、少女は逃げた。
この男は口からカミソリを吐き出せて殺したつもりだった。しかし、まだ呼吸ができるようだ。
(…………父が言っていたとおりだな…………怒りにまかせて…………行動すべきじゃあない…………)
「……おい……」
「……だ、誰だよ……助け――」
「オレはおまえに…………近づかない」
男が振り返ろうとした瞬間、その顔の横にナイフを投げ込んだ。
「ひィ――――――ッ」
「…………オレは暗殺者だ…………しかし、怒りに身を任せてしまった……だから
「た、助けてくれるのか……」
「行くがいい…………振り返らずに行くんだ…………」
男は怯えながら立ち上がった。
ズタズタになった口から血を滴らせながら、男は走った。
「ひッ、ひッ、ひッ、ひッ、ひッ」
男は喘鳴を吐き散らしながら、走り続けていた。向かっているのは砂浜の方向だ。雨の気配に観光客はほとんど去りつつあったが、まだまばらに居る人間に助けを求めるつもりのようだ。
「助けてくれェェェ――――――ッ! 襲われたッ! 呪いに襲われたッ! ここは呪われた場所だ! 仲間がみんな死んじまった!」
男が声を上げながら砂浜を降りる坂道に踏み入った瞬間だった。
バヅン――という音が響いた。
男は派手に倒れた。鼻先を地面にぶつけた。
「ぶげェェ――ッ」
ぶつけた鼻から血を滴らせて、男は這いつくばった。
「な、なんだよォ、チクショオ……おれの、おれの完璧な鼻が……」
男は即座に立ち上がろうとする――が、また転んだ。
「な……なんだ? おかしいぞ……バランスが取れない……」
男は自分の足を見た。
男の足元には血が溜まっていた。真っ赤な鮮血の血だまりが……今も広がっている。
「? ?」
男は靴の裏を確かめるように、右の足を持ち上げて見た。
だが……確かめるべき足がなかった。足首が切断され、骨付きのハムのような断面図を晒していた。
「ひッ、ひッ、ひィィ――――――ッ」
男が悲鳴を上げた。尻もちをついて駄々っ子のように泣き叫びながら振り返った――
ドン、という音と共に男の眉間にナイフが突き立った。
「……言った…………はずだ……振り返らずに行け……と」
男が倒れるのにも振り返らず、
雨が降ってきた。
【2】
〈いまのわたしは 病院のベッドで横たわってる――――――〉
気だるい女の歌声が聴こえていた――
「……う……うぅ……?」
まどろみが破れて、反射的に動かした足の裏からさくりとした感触が伝わった。
眠りに濁った眼を瞬く――歌詞の内容に反して、眠っていたのはテーブルでだった。
白いクロスの敷かれた木製の丸テーブルの上に突っ伏していた。
テーブルの上にはポータブル式のレコードプレイヤーが置かれていた。褪色の進んだプラスチック製のプレイヤーはいかにもな年代ものだった。その傍らにはワイングラスが二つとカトラリーの入った籐で出来た小さな籠があった。
「ここは――」
あたりを見渡す――真っ先に眼に入ったのは、遠くに見える白い岸壁だった。
岸壁は荒々しい岩肌を晒しており、風雨にさらされても残った土には短いながらも木々が根付いていた。木々の緑は岸壁の猛々しい印象を化粧のように和らげて、複雑な相貌にしていた。
上を見上げれば眩い太陽。直下へと落ちる陽光は強く、足元の白い砂地に黒い影を印し、全身の肌からじっとりと汗をにじませた。額を軽くぬぐうと濡れた感触が残り……指先に覚える微細な感覚が、ひどく懐かしく思えた。
ゆっくりと背後へと振り返る。歌声に紛れて、聴こえていた――――――――――寄せては返す波の音。
背後には海が広がっていた。
透明な海面が白い砂地の反射で緑の色を帯び、ひどく透き通っていた――記憶にある海、ろくに見物することが出来なくても、一目で印象付けられる美しい海――サルディニアの海だった。
〈ああ 私には考えられない そんなに長く私が待てるなんて――――――〉
「気分はどうだね?」
声の方向を見ると一人の――――――――――男が立っていた。
「………………」
「どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」
男――――――――――は、微笑んだのだ、と思った。暖かい感情の波が放射され、確かに伝わったからだ。
「君はそのまま掛けていたまえ。わたしからそちらに行く」
男――は、ゆっくりと近づいてきた。
サクサクと砂を踏みしめる足はサンダル履きで、麻のシャツと短い丈のパンツを履いていた。手足は日焼けしており、料理を載せた盆を支える手指や覗けている膝頭は節くれだって、いかにも武骨な印象だった。時は彼から奪えるものは奪ったが、そのこと自体が彼をより純化させた――そんな印象だった。
男は皿を盆をテーブルの上に置くと、湯気の立つ皿をそっと差し出してきた。漂うニンニクの香りに気付いたときには口の中が唾液でうるんでいた。
戸惑って唇に触れると、男が言った。
「ボッタルガのパスタ……シンプルな料理だが、
「…………アンタはオレを食事に招いたのか?」
「半分は。……もう半分は君に頼みがあるからだ……」
「頼みごとだって? ……このオレに?」
首を振り、男から一歩引いた。そして、静かな調子で言った。
「やめておいたほうがいい。アンタの頼みがなんであるにせよ、オレが役に立てるとは思えない。……オレはもう――」
「そうだ。君の思っている通りだ………ブローノ・ブチャラティ……
その言葉は流れる水銀のように滑らかに耳に入り、頭の中でぴしりと結晶した。
結晶はカットされたダイヤのように無数の面を煌めかせて、旅の記憶を映し出した。
ジョルノとの出会い――ポルポの死――チームの面々――ペリーコロと彼が連れてきた女性――トリッシュを守る旅――老化のスタンド使いと釣り竿の男――ヴェネツィアでのボスとの対決――フーゴとの別れ――そこで感覚はボヤけていく。すでに死んだ身体は感覚すら鈍磨になる。
だが、それでもブチャラティは戦い、地中の男を制し、ボスを追い詰め、『レクイエム』の現象のなか……自分は『レクイエム』を打ち砕いた。
そして確かに自分は――ブローノ・ブチャラティは死んだ。
ディアボロとの最後の戦い。ジョルノが矢を掴んだ姿――あとの結果は見ずとも解った。だから、何の心配もなく逝けた……そのはずだった。
しかし今、ブチャラティはサルディニアの海に居た。陽射しに汗をにじませ、パスタの香りに食欲をそそられている。最後の数日間は皮膚も舌も、何も感じていなかった。
〈ああ 気づいて 私の痛みがあまりに激しいことを――――――〉
こんな風に歌声を聴くことも、痛みすらもなかった。
ディアボロの身体を借りた時、感覚は甦ったが、所詮は他人の身体だった。
「君は確かに死んだ……だが、君は為すべきことをなした。この料理はそのお礼だと思ってほしい」
「…………ひとつ質問がある……アンタは誰だ?」
「その質問に答えるのは……ひどく難しい……君にはきっとこう見えているんだろう。『顔がない男』と」
男の言うとおりだった。
ブチャラティには男の顔が
眼がある、鼻がある、唇がある、髪が生えている。そこまでは認識できる。おおよそは男の顔だ、ということも。だが、眼を凝らして眼の色や髪の色、鼻や唇の形を確かめようとすると判らない。顔全体を認識しようとしても、像を結ばないのだ。朦朧として、ただ男の顔がそこにあるという印象……それだけがある。
『顔のない男』はまた笑顔の雰囲気を放射した。
「まずは食事を楽しんでくれ。戦士への歓待として、これぐらいしか出来ないのが申し訳ないが――」
「『戦士』? ……オレが?」
男はうなずいた。
「『人はみな運命に選ばれた兵士』……だが、己の意思で戦うことを決めた人間は、運命に従う兵士ではない……君は自分がどう思っているにせよ、君は『戦士』だ」
「………………」
ブチャラティは差し出されたパスタをしばし眺めていた。
凝った料理ではない。母親が子供に作るような、シンプルな料理だった。
思い切ってフォークを手に取った。
パスタをフォークに絡めると、そのまま口に入れる。ツンと刺さる塩の味……ボッタルガの味わい。しかし、パスタを噛みしめていると、次第に小麦の甘味が口の中に広がっていった。ゆっくりと噛み締めてから嚥下する。
『顔のない男』がワインを注いだグラスを受け取ると、一口含む。口中の塩気を洗い流すと、芳醇なブドウの香りが鼻腔を抜けて、ひどくさわやかな心地だった。
波の音と歌声に、フォークと皿が触れる音が加わった。
会話はなく、音はそれだけだった。
無心の食事を終えると、ブチャラティは感謝をたたえた眼差しで『顔のない男』を見た。
しかし、続けて出る感謝の言葉を男は制した。
「やめたまえ……これはささやかな報酬だ。感謝するのは私たち――この土地の者なのだからね」
「…………あんたはこの土地の人間なのか?」
「人間ではない…………君の従えている守護霊は、人の姿をしているだろう」
「スタンドのことか? 確かにそうだが――」
「私はいわば土地に憑く守護霊《スタンド》なのだ。『土地の守護霊』とでも言えばいいだろうか……どんな人間にだって、生まれ育った土地に対する思いがある。土地を開き、耕した人間がいる。土地のために戦った人間がいる。住まう人々の生活を支えるために働き続けた者もいる。人間が死ねば何かを残す……タバコを吸えば、灰と煙が残るように――燃え尽きぬ思いが残り、そのエネルギーが積み重なって人の姿をとったものだと思ってくれればいい。たとえばいま君の食べたボッタルガのパスタもそうだ」
「…………パスタが?」
「いま君の食べたのは『パスタの幽霊』だよ」
ブチャラティは思わず口を押えた。
「いいリストランテだったんだ。町でも一番のね。だけどガス漏れを起こして店主も客も吹っ飛んだ……残ったのは『料理の幽霊』というわけさ」
『顔のない男』は冗談めいたしぐさで十字を切った。
「君に食べられることで、やっと昇天できたというわけだ。このワインも昇天させてほしいものだね」
ワインのボトルを軽く持ち上げて示し……不意に押し黙った。表情はわからないが、沈鬱な雰囲気が生じていた。
「かつてこの土地で大いなる災厄が生じた……その災厄はあまりに大きかったが、同時にひどく密やかだった。誰にも気づかれることはなく――災厄はこの地の村を一つ滅ぼし、土地を離れた……さらなる災厄をもたらすために――だが、君たちは災厄を止めた」
「ディアボロのことか?」
「うむ。土地から生じた者は土地の者が滅ぼさねばならぬ――だが、そのことに誰も気づけなかった。皮肉にも災厄の血を引く者が共に戦ったから面目はたったが……しかしそれでも私たちは君たちに何もできなかった」
「…………奇妙な話だな。土地が人間や面子の心配をするなんて……」
「『土地の守護霊』だ。基本的に私たちは何の干渉もしないが――だが、土地を汚す邪悪があるなら、そのために戦う……だが、二度も君たちに頼ることになってしまった」
「『二度』?」
「…………そうだ、われわれは災厄が去った……そう思っていた。だが、災厄はこの土地に……恐ろしいモノを残していった。このサルディニアには、君にしか倒せない存在…………『悪霊』がいる」
『顔のない男』はこう語った。
この数日、
「わたしの中に残る魂には……戦争に行った者もいる。戦地で人が死ぬのを観てきた者がな……その男の記憶がこう言っている――
〈おれは! 今までの人生で戦場を渡り歩いて、いろんな死人を見てきた。スペインで機関銃をくらって自分の血でおぼれた死体だの、アフリカで戦車の榴弾を食らってバラバラになった死体だの、ロシアで生きたまま凍りついて断末魔を上げるガラスの彫像みてーになった死体だの! だがこんな死体もこんなことをする人間も見たこともねえ! 人間をグチャグチャにするこんなおぞましい憎悪を感じる存在はよオッ!〉
……私も同感だ。あの死体を見た時、この世のものではないすさまじい呪いの力を感じたよ。呪われた魂だけがなせるような――おぞましい行為だ……」
「……興味深い話だ……ゴシップ紙に載っているよう話ぐらいにはな……だが、そんな事件がオレと何の関係がある?」
「ブローノ・ブチャラティ……この事件は君にも関わりがある……『狐の尾』で報われぬ死に方をした人間がいる……その魂が今もこの世に残って、近づく人間を殺している……」
「………………」
ブチャラティの呼吸が一瞬止まった。『顔のない男』は構わず話し続けた。
「……あの土地では、君と同じ『守護霊』を従えた人間が死んでいる……おそらくはその守護霊のパワーで『悪霊』となって、近づく人間を無差別に殺している。死の衝撃で、記憶か……正気か……その両方か、精神の状態が安定していないからだ。わたしたちは土地を守る霊として戦おうとしたが、相手にもならなかった。だから、わたしたちは君を呼んだのだ……」
「呼んだ……死んだはずのオレを、この世に呼び戻したのか?」
「正確に言えば違う。君自身の魂だけを……この地に呼び戻した。君の肉体はもちろん死んでいるし、魂だけでは、この世界に長く留まることは出来ない。自分だけの結界を持っているか、罰としてこの世に留められているのなら別だが…………今の君ならもって一日だろう」
「…………その時間で、あんたの代わりに戦えっていうのか?」
『顔のない男』が苦しげな雰囲気を発した。認めたくない事実を認めざるを得ない、そんな気配だった。
「……私は長い間、この地を守ってきた。土地を守る『守護霊』として、恥じ入るべきことであるが……だが、わたしたちの優先すべきことは、この土地を守り、浄めることだ……悪霊のはびこる土地となれば、観光客どころか、この土地の人間も近づかなくなる……それだけでは済まない。殺された人間の魂も悪霊となり……サルディニアを穢していく……もちろん『報酬』はある――」
『顔のない男』はそっとテーブルの上に何かを置いた。
「……携帯電話……という機械だそうだな。この機械に私の力を少しだけ与えた。死者の世界と生者の世界をつなぐ力をだ……君自身を死者の世界から呼び戻したように、この電話は死者の世界から生者の世界に呼び掛けられる……」
「………………」
「君の死は本当に満足のいくものだったか……? 最後に何か残したい言葉はなかったか? この電話を使えば……君の知る人間と最後の会話をすることが出来るぞ……もし君が戦ってくれるなら、この電話を進呈しよう……」
ブチャラティは自分の顔が引き攣るのを覚えていた。
自嘲の笑みが浮かび……しかし、携帯電話から視線を外すことは出来なかった。
「…………随分と都合のいい話だな」
「……わたしたちが死後の安逸を得ていた君に、無理な頼みをしている……そのことは、解っているつもりだ。君は戦ってきた男だ。戦士に向けて……これ以上戦え、とは本来は言えない……だが……もし、君に少しでも、この地を守る気持ちがあるなら――」
ブチャラティは手を掲げて、『顔のない男』を黙らせた。
携帯電話を改めて眺める。
遺す言葉……遺してきた仲間たち。まったくの悔いがないと言えば嘘になる。だが、あの時は確かに幸福に死ぬことが出来た。悔いがあるとしても……今ひとたび戦ってまで遺したい言葉があるのか。
ブローノ・ブチャラティはギャングだ。だが、ギャングであることは戦うことを好むのと同義ではない。死後の安逸を得た後、心臓も焦がすような緊張の中、身を削って戦いに挑むことは望むところではない。
だが、もし……もし、仮に……自分の懸念が当たっているかもしれないのなら――
「………………アンタはオレを勘違いしている。オレは……『戦士』なんかじゃあない」
「…………」
「オレは『ギャング』だ。自分のナワバリのためならともかく、他人の土地のために戦う理由なんかない――」
「そうか……それなら」
ブチャラティは携帯電話を手に取った。
「だから…………戦うのはこれきりだ……アンタの話で気になることがあった……オレはそれを確かめたい」
【3】
ブチャラティはゆっくりと浜辺から移動し、崖の方向へと歩いていった。
ここに来たのは二度目だ。以前はナランチャと共にボスを追跡した時だった。
切り立った崖の岩肌は峻厳そのものだが、登ることは難しくなかった。
「『スティッキィー・フィンガーズ』ッ」
ビシリ、という音を立てて岸壁に亀裂が走る――その亀裂には互いに噛み合う金属の歯が備わっており、殴打した地点には、やはりジッパーのスライダーが現れていた。
『殴った個所にジッパーを発現する』――これがブローノ・ブチャラティのスタンド、『スティッキィー・フィンガーズ』の能力だった。
ブチャラティがスライダーの持ち手を掴むと、スライダーが動き出す。
噛み合う金属の鋸歯が開くのと同時に、崖の上まで登っていく。振り返れば浜辺が遠ざかり、見上げれば崖の上はもう目の前だった。
スライダーが崖の縁に達すると、手を掛けて身体を持ち上げた。素早く登り、低い体勢のまま『スティッキィー・フィンガーズ』を構えさせた。
しかし――なにも居なかった。ゆっくりと立ち上がると、何か異常がないか確認した。
以前と変わらず、草地に大小さまざまの岩塊が転がり、人が隠れる物陰には事欠かない。
(いや……悪霊が隠れるようなまねはしないか……?)
それでも岩から一定の距離を保ちながら、足音を殺して歩いた。
草地なので、静かに歩けば足音はほとんどしない。ただでさえ、周囲に生物がいないため、物音がしないのだ。静かに動くに越したことはなかった。
(……しかし、こんな形でサルディニアを独占できるとはな――)
『顔のない男』いわく、ここは時間と時間の隙間のような空間なのだという。そういった空間を作り上げてブチャラティを呼び出した。だから普通の人間――スタンドを持たないような人間が入ってくることはない。そして、他にこの空間にいる者がいたとしたら……
奇怪な殺人があったという現場は、ここからもう少し先だった。
草地を歩いていくと、踝から脛にかけてが冷たくなってきた。
「…………濡れているな」
見れば地面に生えている草は、水滴を光らせていた。今の空は晴れているが、少し前に雨が降ったらしい。
歩きながら何の気はなしに草を爪先で蹴り上げると、散った水滴に陽光が反射してキラキラと輝いた。
(オレは死んでいたんだ。まさかこんなふうに自分の肌でモノを感じ、ぼやけていない眼でモノを見れる……そんな瞬間が来るとは思わなかった)
ブチャラティは子供のように笑っていた。冷たい感触すら新鮮だった。
死にゆく肉体に魂がとどまっていた時、すべての感覚は薄絹越しに感じ取るようだった。
何を観てもボヤけ、音は遠くハッキリしなくなり、指先は触れたものの感触が粘土のようにしか感じず、舌は何の味も伝えず、刺激だけがあった。
だが、今は何もかもが明瞭に、澄んだ感覚で受けとれる。
老人の魂が、いきなり赤子の身体に押し込められたら、こんなふうに感じるかもしれない。
(……『レクイエム』ならば……そんなことも可能か……)
躍っていた心が、不意に現実へと戻る。
ブチャラティの歩みは遅くなっていた。
(『顔のない男』は言っていた。ここはオレと悪霊の戦うためにある空間だと……だから、急ぐ必要はない。出会うものがあるとしたらそれこそが敵に他ならないんだからな――)
急ぎはしない。相手は待ち構えているのかもしれないし、油断しているかもしれない――後者ならば助かるが、しかし……仮に考えているとおりだったとしたら――
歩みが、一瞬止まった。
ブチャラティは荒々しい風にさらされたように身を固め、眼を閉じた。
(今から考えても仕方がないことだ……そして、考えている通りだという確証もない……だが、仮にオレの予想が当たってしまったのなら――)
ひどく足が重く感じられた……だが、痛むほどに唇を噛みしめて一歩踏み出した。
(オレが決着をつけなくてはならない――)
閉じていた眼を見開く。ブチャラティの瞳は冷たい輝きを帯びていた。
心を決めれば、足取りがよどむことはなかった。
『顔のない男』に教えられた場所に辿りつく。教えられた場所は崖の上だった。
今いる場所は車道にほど近い。崖の下には海岸が見えた。下にはボスの写真が撮影された場所……海岸沿いにある石造りの建物と、海に向けて伸びた桟橋が見えた。石碑は――――――まだ残っていた。
「…………」
ブチャラティは首を振った。そして、改めて周囲を観察した。
(殺された人間はスタンド使いじゃあなかった……だから認識できなかった。人間をズタズタにするようなパワーを持っているのなら……近づいて攻撃をしてくる……)
耳を凝らして警戒する。何かが動くような物音はしなかった。
風も今は止んでいる。動くものがあれば、かすかな物音で察することが出来る。
「…………」
周囲を見渡しながら、ゆっくりと大きな岩へと近づいていった。
岩の高さは3メートル近い高さで、歪なレンガのような長方形だった。
岩塊に触れて確かめてから、背中を岩に押し付けて立った。
背後からの攻撃はこれで防御出来る。攻撃の方向を限定すれば、対応する範囲を絞ることが出来る。
周囲から物音はしなかった。視線を上に向けるが、青い空に細く引き裂かれたような雲が薄くかかっているだけだった。
どれほどの時間が経過したのかは判らなかった。
敵の動きはない。こちらに気付いて、何かを仕掛けようと狙っているのか……
「……悪霊だから『ビビる』なんてことはないと思っていたがな……こちらから追跡して発見すべきか……?」
相手も隠れる、というのならば、探し出す必要がある。
ブチャラティは『スティッキィー・フィンガーズ』を再度発現した。背後の岩を殴り、ジッパーを取り付けた。ジッパーのスライダーで身体を引っ張って持ち上げれば、よじ登って背面を晒さずに済む。
周囲への警戒を忘れず、スライダーを手探りで探った。
「…………ン?」
手探りで掴んだスライダーの引き手が、糸で引かれたように鋸歯に対して垂直になっていた。
スライダーを操作して動かすと、ひどく動きが重く感じた。鋸歯が弾ける音が断続的に響き、数秒かかって岩の上へとよじ登った。
岩の縁に達すると、後ろ手をついて、身体を持ち上げようとした――時だった。
ピチャンという音――指先に冷たい感触。
ブチャラティは即座に手を離すと、素早く岩の上に立ち上がって振り返った。
触れた個所を見ると――ブチャラティ自身の顔が見えた。
「…………なんだ……『水溜まり』か――」
岩の上は滑らかではなかった。降雨の痕跡は草地には水滴としてしか残らなかったが、岩の上では水溜まりとなって残っていた。
水溜まりは大きく、まるで引き潮で浅瀬に取り残された潮溜まりのように、岩の上を覆っていおり、陽光が照りつけて、ギラギラと輝いていた。
ブチャラティは眩い光に眼を細めていたが、高い岩から周囲を見渡そうと首を回した……瞬間だった。
「――――――――――今のは……?」
ブチャラティは再び目を凝らした――
【4】
ブチャラティの視線が一瞬振り向けられた……と思った。
息を呑む一瞬――だが、岩の上のブチャラティはすぐに視線をそらした。
(…………そうだったな…………『メタリカ』で風景に溶け込んだオレを……誰にも見つけることは出来なかった…………)
安堵の息は漏らさない。細く長い息を吐いて、硬直を緩めた。
ピリピリと張り詰める緊張感は、いっそ心地よかった。
暗殺の際――しかも強敵の暗殺の際は、こんな心地が味わえた。全身の細胞に殺意が漲り、身体のイメージと自己の意思が完全に一致する。たとえ毛の一筋でさえ、思いのままに動かせる――そんな感覚。
体内に潜む『メタリカ』のスタンド力が全開で使えるのは、こんな時だった。
気づいたのは、
決してブチャラティの射程距離内には入らなかった。相手を射程距離内に収められる距離を保ち続けた。
(…………そういえば……何故オレは……ブチャラティのスタンドの名前を知っている? 直接に会ったことはなかったはずだ。その能力も知っていた…………ブチャラティは……幹部ではなかったはずだ――――のお気に入りの部下だ。だが、――――――――――が、死んで……)
『死んだ』――その言葉が、
(……う……ぅ……)
何故ブチャラティについて知っているのか……考えると頭痛が襲ってきた。
今は暗殺に集中しなくてはならない――眼の前の標的を見つめると、曇っていた思考が澄み渡り、冷静に考えられるようになった。
ブチャラティは周囲を警戒していたが……
(地表にある鉄分から作り出すのもいいが……ただ一人だけなら簡単だ……体内の鉄分を使えば、肌の下に作り出した刃物でたやすく切断できる――――――――――)
草地の上を足跡を残さないように移動し、足音は殺して、岩の上に登ったブチャラティを5メートルまで接近した。姿を隠したままで、ブチャラティを監視した。
すぐに発現すると、肌の下に生じる違和感で気づかれる可能性がある。
磁力を使ってハサミの刃を密やかに開き、いつでも喉首を切断できるように備えた。
岩の上のブチャラティは姿勢を低くしており、一瞬姿を見失った。
(……………………)
ブチャラティは太陽を背にする位置に立ち、逆光の中でシルエットになっていた。
影の中に潰れて、ブチャラティの姿はハッキリと見えなかった。
だが、ゆっくりと動かしたハサミは既に開ききっていた。
(………………『メタリカ』…………)
ハサミを素早く閉じて、ブチャラティの喉首を両断する――
開き切ったハサミは喉首だけではなく、皮膚下の大動脈や筋肉、骨をも一緒に断ち切る。
ブチャラティは首の異常に気づいたらしく、両手で首に触れているのが解かった。
しかし、すでに遅い――肌の下のハサミを取り出す間を与えず、断ち切る。
そのあとの光景は、もはや見るまでもなく解っていた。暗殺のたびに繰り返してきた光景だ。
脛骨を喉ごと断たれて、支えがなくなった首が背後に向けて落ちる。しかし、骨と肉が切断されても首の皮は繋がっているので、そのまま落下せず、首の皮が垂れてぶら下がる。血管も切られているので大量に出血するが、血の出口がないために喉のあたりに溜まり、風船のように膨れ上がる――
シルエットのブチャラティも、首が後ろに向けて垂れ落ち――そのまま膝をついてくずおれた。
「………………」
完全に殺した……その確信があった。自分の暗殺が気付かれたことはこれまで一度もない。
延髄を断ち切ったのだ。即死したはずだ。
しかし、それでも相手は『組織』の幹部だった。カモフラージュは解かない。相手の死体を確認するまで、暗殺は完了していない。
足音を立てずゆっくりと岩に近づき、そっと触れた。ジッパーが設置されている様子はない。耳を押しあてたが、動いている物音も伝わってこない。
岩の縁に指先を掛けたところで一瞬、動きを止めた
そして、ゆっくりと岩の縁まで顔を上げて覗きこんだ。
(……………………)
ブチャラティは倒れてはいなかった。両膝をついて座り込み、のけぞるような格好になっている。
しかし、その首は背後にぶら下がり、垂れ落ちていた。
岩の上の水溜まりに踏み込み、水音を立てながら進む――と、カチャリという音が響いた。
硬い物体を踏んだ感触。
落ちていたのは…………ハサミだった。
「………………なんだと……」
「
声が――ブチャラティの声が聞こえた。
だが次の瞬間! 岩が弾ける音を立てて裂けるッ!
水たまりの底に生じた裂け目――その淵には金属の歯が備えられていた――
「これは…………『スティッキィー・フィンガーズ』のジッパー!」
開いたジッパーから腕が飛び出すッ! 高速で放たれた『スティッキィー・フィンガーズ』の左の拳がハサミを掴む手を打ち据えた。
ハサミは弾かれて飛んでいった。だが左拳の掠めた前腕に亀裂が走っていた。設置されたジッパーが
「動くな……と言ったのは……抵抗するな、という意味じゃあない」
返り血を受けた『スティッキィー・フィンガーズ』の左腕が、岩に設置されたジッパーをくぐって消えた。観ればブチャラティの足元にはジッパーが設置されていた。ブチャラティの腕はジッパーで紐のように細く長く解かれており……戻っていたスタンドの腕と共に、元の腕の形に巻き直された。
「その位置ならちょうどよかったからな……攻撃するのに」
ブチャラティはゆっくりと立ち上がった……後ろに垂れ落ちていた首に手をやって持ち上げると、元の位置に戻した。
後ろに垂れ落ちた首はうなじの皮一枚で繋がっていた。
ジッパーでぎりぎりまで首を切開して、切断されていたように見せかけていたのだ。
「きさま……どうやってオレの『メタリカ』の攻撃を…………」
「……一つは『偶然』だ……オレのスタンド、『スティッキィー・フィンガーズ』はジッパーを設置する能力……そのジッパーのスライダーの引き手が持ち上がっていたんだ……何かに引っ張られるみたいにな。それでおかしいと思った……そして、もう一つは『幸運』だ……」
ブチャラティは足元を――岩の上の水溜まりを指した。
「ここの岩の上に登った時に、水溜まりにオレが反射して映っていた……喉にハサミが埋め込まれたオレがな……攻撃を仕掛けられているのは判った。仕掛けているオマエの方向もな。引き手が引っ張られた方向に居る……だが、正確な位置は判らなかった。どうやって隠れているかもな。『スティッキィー・フィンガーズ』は近距離パワー型のスタンド。相手の位置がわからないと正確な攻撃は出来ない……」
ブチャラティは
「だから利用することにしたんだよ。オマエ自身の攻撃を……暗殺が成功したか確かめようとするオマエが、『スティッキィー・フィンガーズ』の射程距離にまで近づいてくるのをな……」
「…………してやられた……ということか……」
油断ならぬ相手……だということは知っていたが、『メタリカ』の暗殺を掻い潜るのは予想外だった。
だが……更に予想外だったのは、ブチャラティの表情だった。
「………………ひとつ教えろ…………」
「なんだ?」
「…………きさま何故……笑っている?」
嘲笑ではない。心安らかな、安堵の笑みだ。
笑っていることを指摘されても、ブチャラティは笑みを隠そうとしなかった。
「…………オマエが悪霊になっている……ということは予想していたよ。ここで死んだスタンド使いだからな。ただ、それだけなら……オレがオマエの相手をする理由はない」
「…………なら、何故ここに来た」
「…………ここで死んだスタンド使いは一人じゃあない……」
ブチャラティの笑みが消えた。厳めしく冷徹な幹部としての表情を取り戻した。
「……おそらくはオマエだろう……そのことは確信していた……だが、オレの部下も……レオーネ・アバッキオも……死んでいる。もし仮にでもオレの部下が、この世に恨みがあって悪霊になっている可能性があるというのなら……オレは最後の責任を果たさなきゃならない……」
ブチャラティは顔を上げると、空を見上げた。
「だが……アバッキオは恨みを残すことなく逝けたようだ…………安心したよ」
「…………なるほど……な……『幹部としての責任』か…………オレは納得した……オマエは安心した……ならばお互い問題はない――――――――――」
水溜まりがギラリと光った。
「そのまま……安らかな気持ちで逝けッ」
湖面のきらめきに隠れて反射された刃が、ブチャラティの顔面に向けて飛ぶ!
「ガードしろっ! 『スティッキィー・フィンガーズ』ッ!」
放ったメスは打ち落とされた。
着地――と、同時に鉄粉によるカモフラージュを再度まとい、姿を消す――
「キサマの能力は読めているぞ、
岩の上のブチャラティが告げた。
だが、
(しとめるのは…………オマエじゃあない…………オレだ。だがひとつだけ感謝してやる……)
皮肉にも
呼ばれた姓名――
父から受け継いだ誇りある姓。
敵も味方も恐れさせた己の名。
(感謝するぞブルーノ・ブチャラティ……オマエのおかげで思い出せた…………オレは『暗殺チーム』、リーダー、リゾット・ネエロ…………オマエを殺す者だッ)
リゾット・ネエロ。
かつて『組織』最高の暗殺者と呼ばれた男は……甦った。
To Be Continued ……