蜜柑が人間の腹部を貫通することで殺人が行われるとか、そんなことあり得るのだろうか。……あらすじを読んで衝動買いしてしまった文庫本を読みながら、ぼくはいつも通り先輩が来るのを待っていた。
日当たりの悪い位置にあるせいか、あまり人の寄り付かない校舎の隅。その角部屋である文芸部部室には、今のところぼくしか来ていない。そして先輩がここへ来たとしても、それ以上部員が来ることはない。我が校の文芸部は、九割方幽霊部員で構成されている。
ぼくが本を長机の上に置いて、時計を見たのとまったく同じタイミングで、ガラガラと無駄に大きな音がした。建付けの悪い部室の引き戸が開く。
「いつも早いね」
幕のように垂れ下がる制服のスカートが、いつ見てもぼくに妙な違和感を寄越す。今この瞬間、部活の皆勤記録を更新した先輩、あるいは部長は、当然のように宙に浮かんでいた。隣に鞄も浮かんでいる。
彼女には肩から先の両腕と、太ももより先の両足がなかった。
「どうも」
会釈するぼくを満足そうに眺めて、彼女は自分の意思で動く風船みたいに、ふわふわとぼくの向かいの机に向かう。
使用者が二名しかいない文芸部部室には、会議でもするかのように長机が四角形に配置されていて、ぼくも先輩も必ず壁を背にして座った。外の景色が見える窓と、廊下に通じるドアがある方向には、もはや椅子さえ置かれていない。部室に入って右側に座るのは、決まってぼくだった。特に理由はないけれど、いつの間にかそうなっていた。
椅子を引いて、その上にストンと座る先輩。過去、その様子に「人形を置いたみたいだ」と言ったら、恐れ知らずか、と返されたことがある。
浮いていることから察せるが、先輩は超能力が使える。サイコキネシス、念動力だ。触れずとも物を動かせる上、その力は人間離れした怪力でもある。彼女には見えない腕と足があるようなもので、五体満足の人間だって誰一人として、彼女と喧嘩して勝てるやつはいないのだ。
「それ、何読んでるの?」
「ミステリです」
「ミステリ好きだっけ?」
「いいえ、特には」
栞代わりの「話題の新刊!」と書かれ広告じみた紙切れが、ちょうど文庫本のページ半分あたりの箇所に刺さっているのを見て、先輩はぼくに本の話題を振ってきた。先輩は好意的な方の意味で、教室で美少女キャラの絵を描く、オタクの生態を観察するような表情を見せている。
「蜜柑でね、人が死ぬんですよ」
「ほう?」
「しかも密室殺人なんですよ」
「ふむ」
ぼくは先輩から見て正位置になるように、本を持ち上げて表紙を見せた。
「それでこのタイトルですよ」
「なるほど」
蜜柑で人が死ぬ密室系ミステリの、そのタイトルは、「アルミ缶の中にあるミカン」。表紙絵では、細身のアルミ缶の中に懐中時計が入っていて、時計の文字盤にはオレンジの絵が載っている。
「衝動買いしちゃいました」
「面白いのか」
「まだわかりません」
「半分も読んだのに?」
少なくとも現時点、つまらなくはない。けれども、探偵役は今のところ蜜柑を食ってばかりで、殺人のトリックはさっぱり明かされない。これでトリックの真相がそれこそ「サイコキネシスによる怪力で、部屋の外から犯人は超高速で蜜柑を動かし、被害者の腹を貫通させたのです」とかだったら、ぼくはもう少し理性的に本を選ぼうと反省することになる。
いや、そもそも蜜柑って、高速で動かせば人体を貫通するのか? この本に納得のいく結末が果たして用意されているのか。それは定かではないが、今のところ読むのが苦とは感じていない。
「半分読んだだけじゃわかりませんよ」
「ふむ、まぁそういうものか」
言って先輩は、ぼくの本に興味を失ったようだった。聞いたところ先輩は、本を一冊読み終えた経験がないらしい。強いていえば、小学生の頃に絵本を読み切ったことはあるらしいけれど。
ぼくの向かいで、学校指定の鞄が独りでに開いて、中からスマホが飛び出してきた。トースターから飛び出るパンか、そうでなければソシャゲのガチャ演出を連想する。
「五月ってさ」
見えない力で顔の高さに固定されたスマホを見ながら、先輩が呟く。表情は隠れて見えないけれど、スケジュール帳でも確認しているのだろうか。
「なんでこう、「必要?」って感じがするのかな」
「五月病って言葉もあるくらいですからね」
第六感で、もう今日は読まないだろうと悟って、蜜柑のミステリは鞄にしまう。
「わかるよ。一年が十二月周期なのは、偉い人が決めたせいじゃないって。決めようと決めなかろうと、地球の仕組みはそうなっているからね」
「はい」
「けど、出会いと別れの四月、梅雨の六月、夏到来の七月とあって、五月はなに、五月病の五月?」
「中間テストの五月じゃないですか?」
「必要かな?」
「必要でしょう」
先輩は常時、なんとなく勉強が出来そうなオーラを出している。これで彼女が赤点補習の常連なら、それはそれでギャップとして良いのだろうけど、そうなるとぼくはテスト明けからしばらく、部室で一人になってしまう。一人で本を読むだけなら、家に帰ればいい。
けれどやっぱり、補習から命からがら解放された先輩がどんな顔してここに来るのか、一度見てみたい気もした。なんだかもしそうなっても、今日と同じ様子で来そうだけれど。
先輩のスマホが、さっきの光景を逆再生するかのように鞄へしまわれる。それをチラとも見ずに、本人はため息を吐いた。
正直、彼女の容姿は、見るたび無駄に美人だと思う。
「
「はい」
「何か面白い話をしてくれ」
様式美だ、と思った。ぼくにはその台詞が、始業を知らせるチャイムのような物に思える。何度も聞いていて、またその意味を知っているから。まだ彼女と知り合ってひと月程度なのに。
「そうですね。……最近思ったことだと、あまり愉快な話ではありませんけど、どうします?」
「今さらだよ」
まぁ、そうだ。ぼくはかつて先輩から「恐れ知らずか」と言われたけれど、あれを言われてからわずか数日後、先輩の中でぼくのあだ名は「サイコ野郎」になっていた。サイコキネシスからサイコパス呼ばわりされるとは、なかなか面白い構図だと思う。
「卑猥な話になりますけど」
「いいって」
「じゃあ、話しますけど。……あのですね、世の中にはですね、先輩のような人に対して、「軽くて」……こう……オモチャみたいだって台詞が出てくる、そういう本があるんですよ」
先輩の言う「面白い話をしろ」は、より正確に言うと「お前にしか出来ない話をしろ」という意味だ。ぼくは名付けられたあだ名に恥じぬよう、毎度その意図を汲んで話をしている。今回もそのつもりだ。
が、今回、先輩はとても渋い表情を見せた。小規模なトロッコ問題が実生活に降りかかってきたかのような顔だ。
「……なんだろうな、不思議な気分だよ。言葉を選べないわけじゃないんだよな、君も」
「恐縮です」
「ああ、うん。褒めた褒めた」
腕があれば心のこもっていない拍手をしていそうな、白けた顔で賞賛してくれる。もちろん百パーセント褒められたわけではないが、どうやら経験上、その真逆というわけでもないらしいことをぼくは知っている。
「で、なんですけど」
「うん」
「先輩がそういう本を目にしたら、やっぱり傷ついたり、怒りが湧いてきたりするものですか」
両手を机の上に置いて組み、無意識のうちに前のめりになる。この部屋の配置がそうさせるのか、なんだか会議を行っているような気分だ。椅子に座るというより置かれているように見える先輩相手では、どちらかというと尋問に見えてしまうけれど。
「うーん、……いや、怖いかな」
「あ、そうか」
「そう、だってそれを書いたやつは、普通に生きているんだ。私が「ハンカチ落としましたよ」と声をかけた相手が、その本を書いた人だとも限らない。そう考えるとやっぱり、世の中が恐ろしくなってくるよ」
「なるほど」
恐ろしいとは言いつつも、先輩の言葉にはまったく感情が宿っていなかった。個人的には心にもないことを、義務感か何かで口にしているような雰囲気だった。
ぼくの質問に答えながら、何かを想像するように斜め上を見つめていた先輩が、スっとぼくに目を合わせてくる。
「前にも聞いた気がするけれど、君は私からそういうことを聞いてどうしたいんだ?」
「どう、と言われても。知りたいだけです。興味深いんですよ、先輩は」
「ほう〜、そうかそうか」
小声で、サイコ〜と聞こえた。おちょくるような声だった。
「まぁ、私の場合は危険な輩に絡まれても、捻り潰せば良いだけだからな。怖いっていうのも、たかが知れている」
言って、チラとぼくを見る。物理的な意味で、ぼくは先輩へ必要以上には近付かない。何かあったら本気で捻り潰されかねない。先輩の目の前でスチール缶が、気圧に負けたかのように押し潰れる光景を見たことがある。
けれどあれは、今思えば少しニュアンスが違った。ぼくはその光景を見たのではなく、見せられたのだ。
「ところで君は」
身動ぎしながら、さして重要でもなさそうに、
「その本をどういう経緯で見たんだろう?」
窓の外へ視線を向けながら、そう聞かれた。
「経緯と言われましても、先輩。ああいう物は、インターネットでも意外と乱雑に置かれているんです。興味の有無に関わらず、目に入る表紙は多様で」
「ふむ」
「で、まぁ、偶然目に入って。するとこう、あれじゃないですか。それでクリックしましたね」
「あれとは?」
「あれとは、つまり、だから、……あれです、連想ですよ」
「私を?」
ぼくを鼻で笑う横顔だった。
「聞かれたことに答えただけですよ」
「ああ、仕方ないだろうね。私もドラマなんかでサイコパスを見ると、君を思い出す」
みんな君より顔がいいんだ。そう言って先輩は笑った。そりゃ俳優なんだからそうだろうと思ったし、何なら彼らはサイコパスではないとも思った。演技なんだから。
一方でぼくは、たぶん、本物なんだろうと思う。冗談か本気かはさておき、ぼくをサイコと呼ぶのは先輩だけではないし、ぼくは先輩の退屈を解消するためだけに、今回の話題を出したわけでもないのだ。
「……先輩」
「うん?」
「ちょっと言いたいことがあるんですけど」
生半可なことではないぞ、という気持ちが伝わったのか、横顔だけ見せていた彼女がぼくに向き直る。
「うん。……なに? こわいよ、改まられると」
「気に触っても殴るくらいで許してもらえませんか」
「わかった」
即答だった。サイコキネシスは、使う側に「感触」がないからだろうか。先輩はどうやら暴力に躊躇がない。
「そのー、気になっちゃったんですよね」
「なにが」
「本当にその、……軽いのかなって」
……先輩は、ぜんまい仕掛けのようにゆっくりと、また窓の外を見た。ぼくもそれに追従した。外は曇り空で、一面に広がる、鬱屈とした灰色があった。
「足りないな」
静かながらも、叩きつけるような台詞だった。
「足りない?」
「私から君への、好感度が」
「……まぁ、そうですよね」
この世は極論、愛か金。先輩が物理的に軽いかどうか、それを確かめるには、ぼくには何もかもが足りなかった。
そんなに露骨に落胆の色が顔に出たのだろうか。先輩はこっちを見るなり、またぼくのことを鼻で笑った。