十二月。今朝、今年初めての降雪と聞いてから外に出てみれば、埃みたいな雪が空中で風に翻弄されていた。間違っても積もりはしない。
とはいえ雪が舞うくらいなので、部室はいよいよ極寒と言って差し支えない状態となっている。北国の方に比べればしょうもない寒さなのかもしれないけれど、ぼくにとっては恐れるに十分すぎる物だった。が、この部屋にストーブはない。当然暖房も。
ある日先輩に声をかけて、倉庫に放置されているストーブを二人仲良く取りに行ったことがある。先生から鍵を借りて、校舎一階の階段傍にある倉庫へ向かった。倉庫の中は窓が無くて薄暗く、そして埃っぽい。唯一の明かりである電球はむき出しで吊るされており、閉鎖されたトンネルをイメージさせる場所だった。ストーブは倉庫に一つしか置かれていなかった。
超能力で浮かび上がったストーブが、そのまま部室まで運び込まれる。灯油もついでに運んできた。先輩の力に猛烈に感謝しつつ、セッティングを終えてスイッチオン。ストーブの中に赤熱した部分が見えて、これにて一件落着……と思ったところまではよかったのだ。
ひと段落したことを喜びつつ、雑談しながら椅子に座ってダラダラしていると、何か視界が不鮮明になったような気がした。目をこすってみるけれど、白いモヤがかかったようになったまま治らない。自分の目はどうしてしまったのだろう、まぁこの程度なら一生続くとしても耐えられないわけでは……とか考え出したところで、そうかと気が付いた。
視界にモヤがかかっているというのは違う、この部屋にモヤがかかっているんだ。そのモヤとは何だ? それはそう……煙だ! そう気が付いた時には、部屋に充満する煙の色は黒になっていた。
「先輩!」
「焦らない焦らない」
先輩もほぼ同じタイミングで気付いたようだった。ストーブから黒煙が立ち上っている。何が原因かはわからないけれど、あの倉庫に残っていたラストワンは福がある残り物なんかではなくて、論理的根拠があって除け者にされた物だったのかもしれない。
先輩の超能力でスイッチはすでに切られていたが、黒煙がピタリと止むわけではなかった。部室はみるみるうちに黒く煙たく満たされて、中にいれば防災訓練を連想してしまう。すると今言うべきはこうだろう。これは訓練ではない、繰り返す、これは訓練ではない。
「先生を呼びに行こう」
「窓とか開けなくていいんですか」
「開けた方がいいのか、こういう時って」
「知りませんけど」
「私も知らない。分からないことはしない」
ぼくもそれに賛成して部室を出た。二人とも、出来るだけ責任を負いたくないのだ。窓を開けたせいで爆発しましたとか、言われてみれば絶対に御免だった。
そうしてぼくらは職員室へ飛び込み、少なくともぼくは、大人の表情がスッとシリアスになる光景を初めて現実に見た。先生を連れて、人にぶつからない程度の速度で廊下を走り抜け、黒煙立ち込める部室に戻ってきた頃には、ストーブは無事完全に動きを停止していた。先生に言われるがまま窓を開ければ、ものの数分で換気が完了する。
「このストーブはダメだな」
先生からそう言われてはどうしようもなく、かくして文芸部から暖房機器は半永久的に消え去ったのだった。少なくとも先輩が卒業するより早く、新たなストーブが入荷されることはないだろう。
……ということがあって、それから数日。今日もぼくは震えながら部室で本を読んでいる。寒いから集合をまた昼休みの教室にしませんかとは、どうにも言い出す気になれない。それだと情けなさすぎるじゃないか。
「おお、早いね」
ガタガタゴトンと電車みたいな音を立てて扉が開き、明らかにオーバーサイズなコートを羽織った先輩がやって来た。扉の建付けは悪化の一途を辿っている気がする。
「いつも通りですよ」
「寒さに負けて来ないかと」
「まさか。体調が良ければ皆勤です」
先輩はコートを脱がずそのまま座った。長い丈の下半分が、ぺろんと飾りのように椅子から垂れ下がる。浮かんでさえいれば足元を隠し、遠目には足があるように見えないこともなくさせるその丈も、座ってしまえば見た目の異様さを際立たせるアイテムとなってしまうようだった。
「カイロいる?」
聞かれて、ぼくはポケットの中から自分のカイロを取り出し見せつける。こんな物で解決するなら苦労はないのだと。……いや、こんな物呼ばわりはよくない、無くては困る。
「……君は、彼女とかいたんだっけ」
口に何か含んでいたら吹き出しているところだった。
「いませんけど」
「私も恋人の類はいない。けど、クリスマスが来るね」
「来ますね」
我が家にサンタはもういない。正体を知ったが最後消えてしまう概念が、この世には存在するのだ。そしてサンタの正体を知りつつ、恋人を作ることの出来なかった人間にとって、クリスマスとは世界がアウェーになる日である。ケーキにもさほど魅力を感じないし。
「ぼくに彼女がいたら、ここで先輩と二人きりっていうのはまずいでしょう」
「どうして?」
「……そういうものじゃないんですか?」
「わからない」
不毛な会話だった。我々は恋愛において、日本から出たことがないくせに「海外では常識」とか言ってみたりすることと同じ類の話しか出来ない。
妙に釈然としない気分になって、背もたれに体重を預けた。大きなチキンは食べづらく、ケーキは甘ったるい。その上イルミネーションを見ても何も感じず……まるで「生きていて楽しいの?」と街が言ってくるような、そんなクリスマスがまた来るのか。子どもの頃はあんなに楽しみにしていたのに。ウルトラマンの人形を一つ枕元に置かれるだけで跳ね回って喜んでいた。あの頃のぼくはいずこへ。
「最近、切れ味が落ちたね」
「え?」
「言葉の切れ味。顔が良くても手足がないんじゃプラマイゼロ、むしろマイナスですよ……くらい昔なら言っていたんじゃないか」
「そんなことないでしょう」
そんなことはないけれど、今の言葉で二つほど話題が浮かんだ。
「そんなことはないですけど、聞きたいことが出来ました」
「言ってみて」
「世の初々しい恋人たちは「手を繋ぐタイミング」なんかで悩んだりしてるらしいですけど、先輩はそこらへんどう思いますか」
「さぁね。君の肩を叩いた時のように、手を握る感触を再現するくらいが私にはせいぜいだよ」
いや、逆にそれが出来るのだからすごい。試されるのは彼氏の想像力だ。見えない手を心の目で見られるような人でなければ、先輩の彼氏は務まらないのかもしれない。
「なるほど。じゃあそれともう一つ」
「うん」
「先輩って、自分が美人なこと自覚してたんですね」
きょとんとした顔をされた。
「そりゃそうでしょ?」
客観性の獲得はそんなに簡単なことではないはずだけれども、どうやら先輩が鏡を見れば、ぼくが先輩を見た時と同じものがちゃんと映っているらしい。
「思うに、美人というのは大体二種類ある。模範解答タイプと、唯一無二のタイプだ。私は自分を後者だと思っている」
「合ってると思います」
「そしてこれは、男性である君に確認したいのだけれど、男っていうのはどちらのタイプの美人も好きな生き物じゃないの?」
「人によりけりですけど、大方はそうなんじゃないですか」
「……となるとやっぱり、手足が無いからか」
ぼそりと小声でぼやく先輩。仮に先輩に手足があって、超能力はなかったとしても、一定の近寄り難さは残る気がするのだけれどどうだろう。ぼくだって勧誘という体で向こうから話しかけられなければ、仮に同じクラスにいたとしても一生関わらなかったと思う。
「む、何か言いたそうな顔だね」
「手足なんていらないって言ったくせに、と思ったんですよ」
「あぁ、だから彼氏もいらない」
先輩には悪いけれど、隣のブドウは酸っぱいと主張することは、どうしようもなく滑稽だった。ぼくは素直に彼女がほしい。ただ、そのために手を繋ぐ繋がないであれこれ考えろとか、クソ寒い中イルミネーションを見るためだけに外へ出ろと言われれば、ぼくも先輩のように諦めてしまいそうではある。
「そういえば先輩、言葉の切れ味って言ってましたけど、切れ味良かった時って逆にいつですか」
「え、それはもう、あれさ。夏服に衣替えした時、君私に何て言った」
「……あぁ、「それ意味あります?」でしたっけ」
「大体そんな感じだ」
肩から先の部位がない先輩にとって、袖が長かろうと短かろうと体感温度に変わりはないだろう……と思っての一言だった。懐かしい。懐かしいのに、あれからまだ半年も経っていない。
「あのたった一言でエグりに来るような言葉には、いっそ芸術を感じたよ。刃物に例えれば、名刀を通り越して妖刀の類だと思っている」
「根に持ってるってことですか」
「思い出にしているんだ。たぶんこの先の人生で言われることないだろうから」
「わかりませんよ?」
自分が世界にたった一人のレアな人材だとは思えない。高校を卒業したとして、先輩に第二第三の刺客がやって来ないとも限らないだろう。
「それに比べて最近は何か、パッとしない」
「そんなこと言われても」
「もっと神経を疑うような面白いことを言ってよ」
「そんな無茶な」
というか神経を疑われていたこと自体初耳だ。ぼくは先輩が面白がるのをいいことに自分の言いたいことを言っていただけだし、それは今でも変わらない。つまらないと言われればそれは困るけれど、しかしどうしようもないのだ。
ただ、もしも本当にぼくがつまらないヤツになったのなら、その理由にはなんとなく察しがつく。
「思うに、先輩とぼくの付き合いが長くなったからじゃないですか」
「ほう?」
「出会ったばかりの間柄で言われると嫌だけれど、親しくなってからならどうってことない話ってあるじゃないですか。ぼくの出す話題はそれなんじゃないですか?」
「親しくないと嫌な話って、例えば?」
「例えば……? えーと、だから、あれだ。男には分からないから聞きたいんだけど、先輩って髪の手入れとかどんな感じにしてるんですか? とか」
「それは今でもそこそこ気持ち悪いが」
「あれれ?」
神経を疑われるだけあって、一般的な基準というやつが分かっていなかったのか? ぼくは先輩と違ってまだ客観性が獲得出来ていないみたいだ。
「いや、とにかくニュアンスで受け取ってくださいよ」
「ふむ、つまり新鮮さがなくなってしまったということか。飽きたんだな」
「悲しい言い方しないでください。慣れですよ慣れ」
とはいえそれが本当なら、なおさらぼくにはどうしようもないことになる。相手に合わせた話題を持ってこられるエンターテイナーにはなれる気がしない。
「君が新鮮さを取り戻せばいいんだよ。……あ、それで思い出した。昨日寝る前に思いついたことがあるんだ」
「なんですか」
「ちょっと待ってね」
言うと先輩は椅子を大きく引いた。見た目としてはむしろ、椅子が先輩を連れて引いたように見えるけれど。
椅子の足から彼女の頭まで、全体が見えるように離れた先輩は、その場で少しだけ浮き、椅子と自分との間に鞄を寝かせて挟んだ。
「いくよ」
「え……? はい」
きっと先輩は浮きっぱなしで、鞄に体重はかかっていないのだろう。鞄の中から教科書の束が飛び出し、菱餅のように一塊となって浮かんだ。教科書の束はちょうど鞄と同じ高さにある。
そしてその束が、高速で移動した。いや、突っ込んだ。ぼすっ、という音を立てて鞄にめり込む。すると不自然な強力さで、鞄は椅子と先輩の間から抜け出し、すぽーんと吹き飛んで行った。
先輩がストンと椅子の上に落ちる。
「はい、だるま落とし!」
「…………」
……先輩が正確な客観性の持ち主だというのなら、彼女にディスられまくった文化祭の漫才とやらは、いったいどれだけおぞましいクオリティだったのだろう。
「先輩、わかりましたよ」
「おお、何がだろう」
「ぼくがつまらなくなったんじゃなくて、先輩が変わったんですよ」
達磨を見るにはまだ時期が早い。初詣の時期になれば、どこかで赤い達磨が大量に売られているところを見て、それで先輩を思い出すこともあったかもしれない。けれど、それはぼくがやることだったはずだ、今までの流れなら。
ぼくたちは変わってしまった。ぼくは新鮮味を失い、そして先輩はどうやら、たった一つの朱といるうちに赤く染まったらしい。
「どうしてそう思う」
「先輩のことを達磨呼ばわりするとしたら、ぼくの側だったはずです」
「そうかな……? 私だってそういう表現くらい知っているよ」
そう言われてみれば、先輩に「やばい趣向のエロ本がある」という話をした時、「玩具」という言い回しで全てが伝わっていた。「玩具」が何を指すのか、あの時の彼女はすでに知っていたのか……? 別に言葉のまま受け取っていても意味は通じるから、何も言わなかったけれど。
「そうかもしれませんけど、明らかに自虐ネタは増えましたよ」
「だとしたら、インスピレーションというやつさ。私が変わったというなら、私は君を超えたのかもしれないね」
そう言って彼女は勝ち誇った顔をする。吹き飛んだ鞄が帰ってきて、教科書の束を収納して、そっと元の場所に戻った。大きく引かれていた椅子も長机に引き寄せられるようにして戻ってくる。
根拠は上手く言葉に出来ないけれど、今のやり取りでなんとなく、今年もぼくたちには恋人が出来ないことを確信した。