年が明けた。新たなる一年の始まりだ。十六周目の一月の始まりだ。
学校の中の様子は、新年になったからといってどうということはない。ここは社会の縮図という名の閉鎖空間だ。学期という独自のサイクルが一周するまでは、外の世界で除夜の鐘が鳴ろうと鏡餅が開かれようと知ったことではない。
けれど、それでもサイクルがあるだけマシだ。我らが文芸部の部室の扉は、いつまで経っても改善される気配がない。今日もガタゴトガッタンとひどい音を立てて、その扉が開かれた。ぼくは読みかけの本を閉じる。
「早いね」
「どうも」
相変わらず寒い部屋の中で文芸部の会合が、たった二人で開かれる。幸いお互い健康が続いているので、文芸部員は皆勤か全欠勤かの大きな二択に分かれていた。これがオールオアナッシングというやつか。
あけましておめでとうのやり取りはとっくの一週間以上前に済ませてしまった。するとテレビ番組がまだお正月ムードを引きずる時期でも、ぼくたちには何も特別な感覚は残されていない。
「昨日のサザエさん見た?」
え? と思わず聞き返しそうになる。「今日は良い天気ですね」みたいな類の話かと思った。先輩が使うその手の手法は「その本面白い?」なのだけれど。
「見てませんけど」
あの時間帯のアニメは、見ないと決めているわけじゃないけど、見ると決めているわけでもない。
「受験生の話をしていたよ」
「あー……」
今にも舌打ちしそうな先輩を見ていて、一年生のぼくはなるほどと思う。明日……というほど近くもないけれど、しかし明日は我が身だ。
「不思議なことに、それを見て腹が立った。無数に実在する人間を、春の桜や夏の蝉のように扱うっていうのは、懲らしめられるべきことだと、結構本気で思ったよ」
「きっと受験生も大人から見れば、秋の紅葉や冬の雪と同じような物なんですよ」
「だから懲らしめられるべきだと言っている」
二年後、きっとぼくは今の会話を思い出すのだろう。そして二年越しに先輩へ大賛成するのだ。古い動画のコメント欄みたいな現象だなと思う。
「けれど、考えてみればおかしな話じゃないか? 私がそんなことを思うなんて」
「どうしてです? 先輩も受験生でしょ」
「でも私は、君に何か言われて怒ったことがない」
「それは」
たしかにぼくの出す話題は、苦労する人間や苦悩する人間を風物詩扱いすることと、大差なかったのかもしれないけれど。そうだとしても、だからといって先輩がぼくに怒らないのは、別に、怒らないのは……。
……あれ、なんでだろう? 言われてみると不思議な話だった。
「それは?」
「いや、言われてみれば不思議でした」
「そうだろう。何せ君は私に何か言う時、大抵超能力ではなく、四肢の欠損について話す。受験生ほど分かりやすくはないだろうけど、でも同じなんだよ。無数に実在する人間を、玩具にしようっていうのは君も同じだ。というか、むしろ君の方が邪悪だけど……でも君に怒りを感じたことはない」
話しながら、なんとなくだけれど、先輩はすでに答えを見つけているように感じた。それが何かぼくは知らないけれど、先輩は不思議の答えをすでに知っていて、その上でぼくにこんな話をしている。彼女はなぜか、悲しいような寂しいような、憂いの感情をその顔に浮かべていた。
静かで冷たい部屋の中、いくら間を置いても黙ったままのぼくには目も合わさず、彼女は続ける。ぼくは先輩のことをずっと見ていた。
「人並みに人の気も知らないアニメを見るのと、人並外れて邪悪な君と話すのとで、何で感想が違ってくるんだろう。昨日布団の中で考え始めて、よく眠れなかった。けれどおかげで分かったんだ」
どう見ても、先輩は目の下にクマなんか一切作っていなかったけれど。
「答えは簡単、「面と向かって言われるといっそ清々しい」から。理由はそれだけなんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「なるほど」
答えを言いながらニコりともしない彼女に、ぼくは聞いてみることにした。
「じゃあもしもぼくがツイッターなんかに、先輩に話してきたような内容を書き込んでいて、それを先輩が偶然見つけたりしたら」
「きっと腹を立てるんだろう」
「そのあとで「実はあれぼくでした」って言ったら?」
「さぁ、どうだろう。どうせ頻繁に会うのだから、その時言えばいいのに……くらいは言うかもしれないね」
きっと人類の中には、先輩とまったく逆パターンの人もいるのだろうと思う。何にせよ先輩とは単純に相性が良いみたいで助かった。
「というわけで」
何かのスイッチが入ったかのように、突然ぼくは凝視される。そして先輩はニヤりと笑う。
「今日も面と向かって、何か一つ面白い話をちょうだいしよう」
「そう言われましても」
年末にも話したけれど、ぼくは結構ネタ切れだ。先輩の身体的特徴に関わる内容だと、話すべきことは大体話してしまった。そしてそれ以外に「面白い話」をぼくは持っていない。
最近流行りの輪っか型コントローラーを使うエクササイズゲームは四肢欠損の超能力者的にどうなんだろうとか、そもそも運動という概念に乏しそうな先輩はなぜ太らないのかとか、そういう話はこれまでの間に全て終えてしまった。ちなみに答えは「そもそもゲームをしないからどうと言われても困る」「私にもよく分からない」だった。
「あ、じゃあ一つ聞きますけど」
「うむ」
「先輩がゲームしないのって、超能力でコントローラー動かしてもつまらないからですか?」
あまり心に響く面白さがなかったのか、若干退屈そうな顔をされた。
「いや、ゲームは単純に興味がない。けどスポーツならその通りだ。単純につまらない」
「サッカーとかもはや何が何だかわかりませんもんね」
ハンドも何もない。文字通り手がないのだから。
「基本的に全てそうだよ。私は、人間が野球を楽しく思えるのは、空中にあるボールを制御出来ないからなんだと思っている」
一瞬、超能力があればピッチャーが「打たせまい」投げたボールを、打ちやすい場所に飛んでくるよう変化させられるから「つまらない」のかと思った。けれどよく考えてみると、先輩はそもそもバットに当てなくてもボールを遠くに吹き飛ばせるのだ。そういうところが、彼女が体育に参加出来ない所以でもある。
出来ることをわざわざ封印してする遊びは楽しいのだろうか? そう考えてみれば、何もぼくは超能力者の気持ちが分かるわけではないけれど、自分たち凡人の方が確かに野球を楽しめているだろうなと直感できてしまう。
「ゲームも言われてみれば、ガチャガチャ動かしてることが楽しい気がしますね。アクションとか格闘とか」
しかしゲームといえども幅広く、日本には世界に誇る大作RPGもいくつかあるわけで、それらは「複雑な操作をする楽しさ」とはまた別なところにあると思う。それもやらないというなら、本当にシンプルに興味がないのだろう。
「逆に先輩が思う、これは超能力者が一番楽しんでいるだろうって遊びとかあります?」
「ない」
あまりにも速い断言だった。たった二文字の意味を飲み込むため、こっちの方が時間を要したくらいに。
「そもそも私はあまり遊びに詳しくない」
「モーゼごっこはするのに?」
「あれも別に、久しぶりにやったはいいものの楽しくはなかった」
「じゃあ普段何してるんですか?」
「……勉強?」
いよいよ年も明けたというのに、ぼくは初めて、先輩の闇を垣間見た気がした。ぼくが文庫本を開くノリで先輩が参考書を開いていても何ら違和感はないと思っていたけれど、「楽しい遊びなんてない」という文脈からそこに来られると、唯一無二な星のもとに生まれた先輩の闇を感じざるを得ない。
「いや、そんな顔をしないでよ。例えばガンダムのことを調べたのだって勉強だ。今言った「勉強」は、たぶん君が思っていることと違う」
自分がどんな顔をしていたかはわからないけれど、試しに、
「じゃあ趣味はネットサーフィン?」
と聞いてみれば、
「……うーむ。そう言われると、そういうわけでもないね」
と返ってきた。やっぱりって感じだ。ぼくが見たのはやっぱり闇だった。
「趣味と言われると思いつかない。君はゲームが趣味なのか?」
「まぁ、そこそこ」
「読書は?」
「それもそこそこ。あれですよ、特に深くやってることはないですよ」
「……難しいな」
首を捻る先輩からはどうも、人間の倫理観が理解できない化け物みたいな雰囲気が出てきていた。ならば、たぶんだけれど、人付き合いっていうのは何から何まで話さなきゃいけないわけじゃないだろう。だから今後先輩に趣味の話を振るのはやめよう。闇の深度は未知数だ。
「趣味がないことって、人として問題があると思う……?」
引き返すには遅すぎたのか……と内心では頭を抱えつつ、答える。
「ないでしょう」
仮にぼくが「ある」と思っていても、それを口に出せるものか。……それとも先輩は、ぼくならそれさえ口に出すだろうと思ったから聞いたのか? だとすれば心外である。ぼくに人の心がないのだとしたら、それは興味が心を押しのけているのであって、ぼくは人を罵ることが趣味なわけではない。
が、まぁ当然ながら、ぼくから「そんなことはない」と言われたところで、先輩にとってそれが大した救いになるわけではないようだった。浮かない顔をした先輩が、夢中になれる物を見つけられる日がいつか来ることを願う。
「今日の先輩は全体的に浮かない顔が多いですね」
「体は浮くのにって?」
「そういうわけじゃないですけど」
本当にこの人の自虐癖はどうしてこうなってしまったのだろう。まさかぼくに関わる人間の全てがそうなるわけでもないだろうし。
「浮かない顔か。……あれかな、受験のプレッシャーで……みたいな」
「まぁそれは誰しも……あっ、ていうか先輩って何系に進学するんですか?」
「理系」
「へー、詩人だったのに」
「理系にもポエマーくらいいる」
そうだろうけど、理系の大学に進む人が文芸部の部長をやっていて、ああいう文章を部誌に載せたという事実はちょっと面白い物だと思う。
「そういえば先輩は、凪先輩の書いた小説読みました?」
「読んだよ」
文化祭の終わり際に知った話だけれど、先輩の家にはすでに部誌の完成品が一冊あったらしい。凪先輩がくれたのだと言うけれど、あの日の先輩は結局「仕方ないから」と言って、部誌を一冊取って貯金箱に百円玉を数枚入れ込んでいた。
それで文化祭は終わり、部誌は無事にそこそこ売れ残って、教師陣から「まぁそんなもんだろう」という言葉をいただいたのだった。
「どうでした?」
「君の方こそ」
「ぼくは、あれはあれで有りかなと」
「え、正気?」
凪先輩が部誌に載せた小説はすごかった。パンを咥えながら遅刻遅刻〜と走り出した主人公(女子中学生)が案の定交差点でイケメンとぶつかり、そこからラブコメが始まるのかと思いきや、特に何の盛り上がりもなく、なんだかすんなり二人が付き合い始める。
が、さらに話が進むと昼ドラのような不倫展開が始まり、やがてその中で殺人事件が起こるのだ。そして極めつけに宇宙から侵略者が襲来し、それを撃退した主人公(美少女)とイケメンは無二の愛を得る……という話が、わずか約三十ページで完結する。
読後、自分は何を見せられたんだろうと呆然とすることになったが、やがて「そうかこれは「ギャグ」ジャンルか」と気が付く。しかし凪先輩が本当にそれをギャグ小説として書いたのか、内容からも本人の人柄からも、なんとも断言しきれないところが怖い。作者のことを考える経緯まで含めれば、その小説は若干ホラーだった。ラブコメ昼ドラサスペンスSFバトル超大作短編ホラー、それが彼女の書いた作品。タイトルは「鉛の愛」。まぁ確かに、宇宙人にとどめを刺したのは二人が放った銃弾だったけれども。
「私は正直、凪乃野子という人間を舐めていたところがあるんだ。良くないとはわかっていても、向こうの態度があれだから、どうしてもね。けれど小説を読んで印象が変わったよ」
「どんな風に?」
「人間って怖いな、って。……それが小説への感想というか、作者への感想かな」
ぼくも一度、「断る」という言葉が己の辞書に無さそうに見えたあの凪先輩が、こんな自己主張の塊みたいな小説を書くのかと愕然とした。けれどすぐに思い直したのだ。もしかしてこれ、部長から無理やり、部誌に載せる物を書かされた当てつけなのかなと。
ギャグとして書かれたのか、何かの当てつけなのか、それとも真剣で本気だったのか。真実は闇の中だけれども、何にせよぼくとしては、表現として駄作ということはないように思える。あの内容は並の人間の発想ではないし、それを書ききったことがなお凄い。
「ぼくは何か可能性というか新しさというか、こういうことしてもいいんだっていう、捨て置けない何かを感じましたけどね」
「現代アートってこと?」
「まぁ、そういう捉え方もあります」
要約すれば「言ったもの勝ち」だ。売れない現代アートは果たしてアートなのだろうか、という話はここではしないことにする。
…………あれ? と思った時には、ぼくはどうして部誌の話なんかしていたのだったか、忘れてしまっていた。なんでだっけと記憶を振り返る。先輩が詩人あるいはポエマーなのに理系と言うから、あぁそうだ、先輩が大学へ行く話をしていたのだった。
先輩は大学へ行く。なんだか実感が持てないけれど、彼女はもうすぐ卒業して、この学校からいなくなってしまう。それまであと三ヶ月も残っていない。文芸部に顔を出すメンバーはぼくだけになる。誰が顔を出しているのかなんて、誰も確かめることはなくなる。
ぼくは一人になる。ぼくには恋人どころか、先輩以外には友達もいない。
「受験のプレッシャーって言ってましたけど」
「え、うん」
「ぼくも憂鬱です」
先輩がへらっと笑った。
「すぐに自分の番になるから?」
「先輩がいなくなるからですよ」
「……へぇ」
その時の彼女の表情が、いったいどのような感情を表すものだったのか、ぼくにはわからなかった。
「君は私のことを「変わった」というけれど、お互い様なんじゃないかな。いったいいつから、そんな可愛らしい後輩になったんだい」
「元からですよ」
「あはは」
北風が吹きつけてガタガタと窓を震わせる。毎日このストーブもない部室に来るものだから、毎日この先輩がいる部室に来るものだから、ぼくはもう寒さにも慣れてきた。
せっかく慣れてきたのに、ここでこうしてお喋りすることは、もう何日もないのか。そう思えばぼくだって、受験生をネタにするアニメの存在が不愉快になってきた。